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教育と遊び

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このネタを書こうとしていたのはもう半年も前になりますが、6月に池田小連続児童殺傷事件から18年の月日が流れたというニュースがありました。また、その追悼の日を待たずに5月にも川崎で尊い命が狙われ、奪われました。 18年の月日を経ても同じような事件が起きてしまう。社会情勢の変化はどうでしょうか。一説では報道の幅と情報の量がかなり増幅したことで、事件を見聞きする機会が圧倒的に増えたということが犯罪の増加を市民に意識させているという見方もあります。とはいえ、猟奇的な人間が増えているとなると、子を持つ親の心中は穏やかでない日常になってきたことは疑いもない事実です。 18年という月日に縛られなくとも、第4次産業革命に代表されるようにこの20年で情報の面ではかなりの変化が起きました。生活があまりに便利になったことや情報が人間の処理能力以上にあふれかえっている事実は、殺傷以外にも無気力や鬱、無責任行動、生活習慣病に代表される疾病などの増加に副産物として影を落としているのではないでしょうか。 一方で変わっていないものを挙げるとすれば、教育というものがそのうちの一つかと思います。公教育の形は戦中戦後から大きな変化を見せていないと言われます。これだけ社会の変化が起き、その多様性に対応するチカラが問われる中、護送船団方式よろしく画一的で一方通行の教育では考えるチカラ、それはすなわち生きるチカラと同義かと思いますが、を養うことはできないのではないでしょうか。 ようやく大学受験も変化の兆しが見えてきたものの、大枠で詰め込んだ知識の量が試される形式というのはそう簡単には変わらないでしょう。考えることを求められず、言われたこと、書いてあることを覚えなさいという教育が12年間、大学卒業までで考えると16年間続くわけですから、その後にポイっと社会に放り出されていざ考えなさいと言われても、その術を持っていないのですから困惑して当然です。また物事の良し悪しの判断をすることなく育つと冒頭のような事件を起こす人間をつくったり、先に挙げた他の問題にもつながったりしてしまうのではと思います。(とは言いながらも私自身は自分が受けた教育と育てられ方に大いに満足と感謝をしています) 物騒な事件に関しては公園や野原で遊ぶ子どもが減少している原因でもあると思いますが、遊びという“子どもの仕事”が満足に

時間、空間、チカラを調整する

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元陸上選手の為末大さんが毎週発信している「私のパフォーマンス理論」。 その36回目の投稿で「乗り込みについて」が書かれていました。 参考:『 私のパフォーマンス理論 vol.36 ‐乗り込みについて- 』 頭の中では理解しているように感じていたものの、「乗り込み」という表現を用いながら体験談を元に文字でアウトプットされた文章はとても読みやすく、腑に落ちるものでした。自身の体験や考えを文字におこすという作業ができる元アスリートは少ない様に感じます。自分の行なっていた競技に発展性をもたせるべく、そういった経験や思考を後世に伝える手段としてそれ(文字おこし)ができるということはとても有意義なことであり、もっと多くのアスリートに行なってほしいと思います。 それはさておき、「乗り込み」について書かれた文章の中で、特に目に留まったのは以下の部分です。 “慣れてくるとこの乗り込む時に、長く深く乗り込むのか、短く浅く乗り込むのか、膝角度を深くするのか浅くするのか選べるようになる。” (原文ママ) 輝かしい実績を残された元アスリートに対して私がこのように述べるのはある種失礼に値するかもしれませんが、この“長く深く、短く浅く”の感覚を持ち、そしてそれを運用できていたということが、アスリートとして一定の成果を出せた一つの要因だったのではないかと思います。(無礼を承知で言及すれば膝角度に加えて股関節も同じように調整できるとより良いと個人的には思っています) 以前より私はこの場で身体運動の原則として“適切な方向に、適切なタイミングで、適切な力を発揮すること”と述べていますが、この“長く深く、短く浅く”というのは、時間、空間、チカラの三要素を含んでおり、とても繊細で重要な感覚だと思います。 適切なタイミングで筋の緊張を適切に高めておき、関節角度(骨の配置)を適切に整え、来たるべきが来たら必要な分量だけのチカラを発揮する。ほとんどの競技における練習はこの精度を高めることに尽きるのではないかと思います(生理学的な変化を狙った体力トレーニングは除く)。 先に述べた時間、空間、チカラの3要素を共感しながら精度を高めていく作業が指導者には求められます。「ぐぅぅぅぅ~~~、、ポンっ!」とか、「バッ、バッ、バッ」などといったオノマトペは有効

運動というメロディーを奏でる

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1年前、娘が習い始めたのをいい機会として私も娘の教本を使って練習し始めたピアノ。私は子どものときにもピアノを習った経験はなく、右手と左手が別々に動いて違う音、メロディーを奏でるということが自分にはできないと思っていました。しかし娘の進度に沿って教本を進めてみると意外にもできるようになってきて、娘の発表会の曲もなんとか両手で弾けるようになりました。 「練習は不可能を可能にする」とは小泉信三さんの言葉ですが、運動に限らずこんなところでも実感できた嬉しい出来事。 さて、今回の記事の主旨はそこではなく、メロディーはあくまでも流れを伴って成立しているということ。楽譜を見る必要がないぐらい弾き慣れた曲でも弾き間違えて止まった時、そこからスタートすることができないのです。一度リズムが止まってしまうと、途中から入るのはとても難儀です。もちろん私のピアノの実力がその程度だということなのですが、とはいえメロディーの中では弾けるのに一小節だけを抜き出すのができない。何なら音階すらも分からなくなってしまいます。それで初めから弾いてみたり、前後を弾いてみると思い出したように指が自然と動いてくるのです。 これって、運動とすごく似ています。運動もある部分だけを取り出して練習することは私はあまり良い手段だと思いません。金子明友先生の言葉を借りれば運動も一つのメロディーのような流れがあって、それを分断することはできないとのこと。 投球動作を例にとってみても、テイクバック、加速局面、リリース、フォロースルーなどをそれぞれの部分を練習してあとでつなぎ合わせることはできません。またどこかに問題が生じてそこの部分だけを練習しても問題は解消されないでしょう。むしろ問題と見える部分自体は問題でないことも多いです。運動は前後が伴って初めて成立するのであって、言ってみれば初めから終わりまでが一つの運動です。運動が起こっているときには運動はすでに終わっているというパラドックスのような見解もあるほどなので、いかに頭の中で、いや、身体で感じるひとまとまりの動感が大事かが分かります。 昨今ではテクノロジーの進歩により連続写真やスーパースロー再生の精度も上がっています。しかしそれが故に指導者はマクロな動作エラーばかりが目につくようになり、一つのまとまりとしての運動が見えていないケースが

考えるチカラ

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これからの時代は考えるチカラが必要 と言われて、否定派の人はおそらく肯定派よりも少ないのではないでしょうか。 考えるチカラ 決めるチカラ 考えを発信するチカラ これが今の子どもたちには不足している気がします。 例えば休日一つの過ごし方をとっても、どこに行きたいとか、何が食べたいとか、何がしたいとか、そんな自分の過ごし方でさえ考えを巡らせ、そして決めることができないということが実際に起きています。 原因はいろいろあると思います。 休みの日になって、朝車に乗れば黙っていたってどこかの場所に着くし、お昼になって席に座れば食べ物が出てくるし、そもそも休日の予定は大人(親)が決めてしまっている、、、。 もしかしたらという仮説ですが、大人(親)が忙しすぎるのかもしれません。忙しいとどうしても子どもに考えさせるという機会や会話を持たなくなります。何事でも答えを教えてしまえば楽だし、時間だって短縮できます。 でもこの問題、紐解いてみれば、誰もが通ってきた道なのです。正確にはほぼすべての人がとなるのですが、それは学校教育です。 朝、決められた時間に行ってチャイムが鳴れば朝の会をし、次のチャイムが鳴れば望むか望まないかに関わらず算数の授業が始まり、またチャイムがなれば望むか望まないかに関わらず(どんなに集中していようと)そこで授業は終わります。給食も1ヶ月単位で出されるものは決まっていて出てきたものをただ食べるだけ。こうして学校の1日というのは考えるという作業をせずに流れていきます。 極端な言い方をすればこの流れは高校もしくは大学、つまり社会に出る直前まで続きます。そこで突然社会に放り出されて考えるチカラを求められても、、、というのが新社会人の言い分かもしれません。 ではどうしたら考えるチカラを養えるか ですが、これはもう考える機会を与えていくしかないのではないでしょうか。「なぜから始めよう」といった本にもあるように、事の大小を問わず、ある決断事項に対して考えをめぐらせ、(根拠を持って)決断する。このこと自体がトレーニングとなっていくのだと思います。 大人(親)の立場として大事なのは“選択権を子どもに与える”ということでしょう。選択された子どもの意思を尊重しなければならないリスクも当然伴いますが、選択、決断という作業をせずに大人になって

ゲームでスポーツが上達する?

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今私が関わっている子どもたちを見ていると、どうも子どもたちだけで成立するスポーツとそうではないスポーツがあるように感じます。 成立するスポーツの代表格はサッカーやドッジボール。理由は以下のものが挙げられるでしょう。 ・ルールやコートがシンプルである(コートというコートがなくてもできる) ・必要な道具が少ない ・ゲームが成立するのに必要なスキルがシンプルである の3点が私が思うメインポイントです。 一方で子どもたちだけではなかなか成立しづらいものとして野球やテニスが挙げられます。 理由としては前述の3つのポイントがそれとは逆である点にあると思います。 ・ルールが単純ではない上にコートはある程度しっかりしたものである必要がある ・ボール以外に必要な道具がある ・子どもたちのスキルではなかなか子どもたち同士でのゲームは難しい というわけで大人の介入が必要になってしまうあたりが、そのスポーツが遊びとして発展しない=子どもの持つ自由時間にそのスポーツで遊ばない=自然発生的な成長が見られないというサイクルになり、習い事というものに頼る傾向にあります。 そんなとき、私の娘と息子がインフルエンザになり、回復期に元気だけど外出できないという状況になったことから、10年ぶり?ぐらいにwiiを引っ張り出してきました。やったのはwiiスポーツ。ここにヒントがありました。 そのゲームはテニスも野球も来たボールに合わせてセンサー付きのリモコンを振るだけというシンプルなもの(蛇足だが打った瞬間にリモコンを通して振動が手に伝えられるというスグレモノ)。それだけの操作でゲームが成立していました。打つ以外の部分はコンピュータが勝手に動いてくれたり点数をカウントしてくれたり、ゲームは進行していきます。 これはなかなか面白いぞと思って観ていると、子どもたちもやっぱり楽しかったみたいで「もう1回、もう1回」と何度もやっていました。進行が難しい野球もコンピュータが進めてくれるので、野球というゲームがどの様に進行していくのかが一目瞭然です。点数の数え方が難しいテニスも同様に、ゲームをしているとその数え方が自然と身についてきます。 そんなシンプルな中でもボールのバウンドやスピード(タイミング)などはそれなりに現実世界のものが再現されているので、それはそれはいい練習になり

遊びは誰のもの?スポーツは誰のもの?

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ここ最近、プロ野球の筒香選手が勝利至上主義からの脱却を提起している。 甲子園の球数制限然り、最近のジュニアスポーツにおける環境は大きな解決課題になっている。私個人の意見としては、勝利を目指すこと自体は悪いことではないと思っている。 問題は勝利を“目指させられる”ことである。言い換えれば勝利を目指さないといけない状況に置かれるということである。もっと言うと勝利のためならと選別のない手法が採られているのが現状だ。 果たして、 子どもにとってのスポーツは、大人の持ち物になってしまったのだろうか 。そして いつから大人が子どもの遊びを競技スポーツに変えてしまったのだろうか 。 スポーツの多くは元来遊戯からスタートしている。文字通り遊んで戯れることである。 とはいえ、遊びだってやる以上は勝ちたいというのが子どもの心理というものだろう。勝てば嬉しいし、負けたら悔しい。これはしごく当然のことである。「負けたら次はなんとかして勝ってやろう。」この気持ちが上達させてくれる。(逆に言うとこれがないと上達はしない) では大人の役割は何だろう。ここでの私の考えは“子どもの自己実現の手助けをしてやること”である。単に楽しければそれでいいのか、何が何でも勝ちたいのか、どうしてもプロ選手になりたいのか、実現したい世界は十人十色だろう。大人は子どもよりも長く生きているし、いろんな経験もしている。だから子どもが分からないことも分かるし、実現したい事がらに対して助言やお手伝いができる。ここで注意しなければいけないのは実現したい事がらに向けて最短距離を選択することではなく、最適な手段を講じるということである。 子どもにだって自分がどうしたいのかを主張する権利はあるし、主張する必要もある。当然そこには責任も伴う。大人は子どもが何をしたいのかを汲み取ってやって必要な環境を整え、必要な手段を講じてほしい。教えたら簡単なことも敢えて教えない必要性はあるだろうし、長い目で見たら敢えて練習しすぎないことが大事かもしれない。またはこれでもかというぐらい詰め込む時期も必要かもしれない。大人の技量が問われるときである。 遊びなんだからお山の大将で良かったはずなのに、青田買いや大海に出させて現実世界を見せてしまうなどといった行為は大人の罪である。こう考えてみると、勝利至上主義という思想そのもの

運動能力が高いとはどういうことか

運動能力が高いとはどういうことか。 (個人的には“運動神経”という言葉の使用を避けています。) これまでの投稿で何度も登場した基本原則、『適切な方向に適切なタイミングで適切な力を出す』がもちろん関係するのですが、身体の内部ではどういうことが起こっているのでしょう? 例え話になってしまいますが、ある運動を作り上げる作業を薬の調剤に例えてみます。 昔ながらの木製の薬箱(下図参照)を思い浮かべてください。 身のこなしが良いということは、先の例で言うと効き目の良い薬を正確に作ることで、 1.引き出しがたくさんあり、 2.スムーズに引き出しを引いて中身を取り出せ、 3.正確な量の薬を複数の引き出しから調合する ということになろうかと思います。(体内でコンマ数秒で起こる出来事です) この時、引き出しの多さ、引き出しのスムーズさ、調剤の量などが鍵になるわけですが、子どもにおいては運動体験、大人においてはトレーニングにおいてそれらを早く、正確に出来るようになるのだと思います。2つ前の記事とリンクしますが、やはり幼少期、児童期にたくさんの運動経験を積んで引き出しを多く持っておくのとそうでないのとは、後の運動や巧みさの習得の幅やスピードが大きく違ってきます。 そしてもう一つ、最小の薬で最大の効果を得るということも大切な要素です。「薬の服用は、用量、用法を守って行なってください」と注意喚起されますが、運動も少ない努力で大きな成果を挙げた方が巧みであると言えるでしょうから、効率良く動くということもトレーニングによって成し遂げていくべきでしょう。 それは分かったけど、どうやってやるのさ?という疑問がどうしても出てきますが、そればっかりは活字で記していくのには限界があります、、、。そして私も答えを持っているわけではありません。試行錯誤の毎日です。

過ぎたるは猶お及ばざるが如し

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前回の臨界期の話をすると大抵は、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という風になってしまいます。しかし先に述べたように、物事には習得の適齢期というのがあって、後段に譲りますが前出の糸山先生も同じ主張をしています。 一つ、良記事を紹介します。 『松坂大輔の野球人生は成功か。恩師と考える、球児の早熟化』 横浜高校野球部の元部長である小倉清一郎さんのインタビュー記事です。 以下本文の引用になりますが、 「 失敗というと語弊があるけど、『もうちょっとこれは練習しないといけない』『あれも練習しないといけない』という未完成な部分を残しておいた方がよかったのかなというのはある 」 平成の怪物と言われた松坂大輔投手への指導を同氏はこう回顧しています。 要は適齢期を無視して飛び級でありとあらゆることを詰め込んでいった結果(もしくはスポンジのように本人が吸収してしまった結果)、伸び代をなくしてしまったということのようです。あれだけの成功者を輩出しておきながら、この境地に至った指導者というのは希だと思います。 子どもは小さな大人ではない というのは以前から当ブログでも発信していますが、何事もやりすぎはよくないですよということですね。2つ前の記事で紹介した「60%の法則」にも通ずる話です。 さて、冒頭の糸山先生の主張に戻ります。 以下、思考の臨界期の引用です。 「能力は開発すればいいというものではありません。幼児・児童期に目ざめさせてはいけない能力もあるのです。特に時期がずれている時(不自然に早く)に発揮される能力は外になります。害になるから自然には発達しないようにプログラムされているのです。それなのに眠っている子を起こして喜んでいるような人が大勢います。幼児・児童期に目覚めた能力は一生の性格(能力によっては一生の弊害)になる場合が多いので要注意です。」 前出の小倉氏の主張と全く同じではないかとびっくりしました。 小倉氏は別の記事で「今の子はすぐに結果を求めたがる」とありました。子を大人に置き換えて、「今の大人(親)はすぐに結果を求めたがる」が本記事の主旨です。 12歳までは「ゆっくり・ジックリ・丁寧に」が最も効果的な学習方法なのです。(糸山氏談)

運動習得に臨界期はあるか

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糸山泰造先生の「思考の臨界期」をある方に紹介していただきました。面白かったので同氏の著書「絶対学力」その他数冊も読了。ぼんやりと思っていたことがスパッと切れの良い言葉で綴られていて、かつ具体的なアプローチも書かれており、また一つ勉強になりました。 12歳までに考える力を身につけないと一生身につけることはできなくなりますよという強いメッセージではあるのですが、どうやら神経学的にこの主張は説明ができるようです。そうだろうなと思っていたことも多く、改めて自分が関わる子どもに対しての教訓としていこうと思ったわけなのですが、運動指導従事者としてもう一つ思い当たる節がありました。 思考の臨界期とはつまりアスリートを育てるのにも臨界期であるということ。 運動の観点から言っても、運動の種別によって習得の適齢期というのがあり、それを逃すと後の習得は不可能と言わないまでも、なかなか大変な作業になるというのはこれまでに幾多も経験してきました。これは単純に投げることができるとか、泳ぐことができるとか、そういうものではなく、段階を経た条件の整備であって、ハイパフォーマンスというのは過去の運動体験の集積の結果成されるものと言ってよいと思います。 ボール勘や相手を欺くフェイントなどは幼少期、児童期のトライ&エラーの賜物だと言えるでしょう。12歳が運動の絶対的な臨界期だとは思っていませんが、臨界期を過ぎてからボール勘を養おうとしてもとても骨の折れる作業となります。コツやカンの基になるのは過去の運動体験ですから、それがない場合にはその体験を積んでいくことからのスタートです(このあたりは前回の運動の制御の問題ともリンクしますね)。前にJ・デューイの「経験と教育」の話を出したことがありますが、経験していない昨日の自分と経験をした今日の自分は別物で、当然パフォーマンスも異なってきます。 それともう一つ、アスリートというのは単に運動能力がモノを言うわけではないので、当然人格が必要になってきます。人格と言っても徳の問題ではありません(当然あるに越したことはないのですが)。負けん気な性格とか、自己犠牲だとか、目標に向かって努力することとか、内省を次に生かすこととか、周りの協力を得ることとか、そういった人格がスポーツで頂点を極める上で必要不可欠になってくると思うのです。その点においては

巧みさとは制御すること

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コオーディネーショントレーニングという言葉が日本に入ってきたのは1980年頃だと文献より把握しているので、およそ40年の月日が経とうとしています。それでもまだ正しい理解が広まっていないように感じています。 コオーディネーション能力は調整力や巧みさなどと表現されることも多く、器用に身体を動かすことという認識が広まっています。これは間違っていないとは思います。ただし考え方の問題で、様々な要素を“動員”して事を成すのではなく、様々な要素を“制御”して事を成すというのが巧みさの神髄だと思うのです。 2つ前の記事 で運動の観点として 『適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す』 ということについて書きました。 これには時間、空間、エネルギーの要素が関わってきます。 無数にある時間や空間の選択肢の中で、時が来るまで我慢(制御)した上で、暴れる、または有り余る力を制御して使うという行為。選択をするということはその他の選択肢を排除するということです。 例えば「水の入ったグラスを口に運んで飲む」という日常的な動作ですらこのプロセスは行われています。グラスを壊すことのないよう力を抑制し、ただし落とすことのない程度の力を発揮してグラスを持ち、無数にあるテーブルから口までの経路の中で最適な経路を選択し(つまり他の経路を排除し)、早くも遅くもなく水がグラスの口に向かって流れ始める時を見計らって口を開いて飲む。例えは違えどスポーツ現場でもこのような運動の様態は同様に行われます。 いかに必要無い時間、空間、エネルギーを排除して、最小努力で目的とした事を成すか。これこそが本当の巧みさであり、コオーディネーショントレーニングというのは、とどのつまり制御の精度を高めるトレーニングと言えるでしょう。動きが巧みな人を見ると、そのスムーズさや脱力具合が見てとれるのはそういう制御の能力に長けているからということですね。 ちなみに、人が真似できないような奇抜な技の習得を狙ったコオーディネーショントレーニングも見られますが、それ自体が目的ならばそれはそれでいいと思います。しかし、ある競技力向上を目的としたときの手段としてコオーディネーショントレーニングを用いるのであれば、主旨は違ってきます。昨今流布しているコオーディネーショントレーニングはトレーニング自体が目的化してしまって