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遊びは自己実現

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自分たちで遊びを実行できない場面をよく目にします。 「ドッヂボールがしたい。」 しかしなかなか実現できません。大人なら何とかしてくれるだろう、、、と大抵は大人を頼って懇願してきます。 ドッヂボールをやるにはいろいろなものが必要です。仲間、ボール、コート、ルール、、、これらをまずは用意しなければなりません。 仲間を集うのにはコミュニケーション力や交渉力がいるし、どこにあるどんなボールを使うのか、コートはどれぐらいの大きさでどうやって仕切りを設けるのか、ルールをどのように設定するか、、、いろいろなことを決めて実行していかなくてはなりません。そしてその遊びを知らない人、興味ない人を惹きつけるプレゼン力。 この時点で、何かしら欠如していると「もうドッヂボールやらなくてもいいや」となってしまいます。傍から見ている私は、ドッジボールがやりたい情熱はそんなものか、、、といった感想を持つことになります。その結果、本当はやりたくない他者の遊びに付き合うことになります。でも自分がやりたいドッヂボールを実現できなかったのだから仕方ないのです。 遊びとは自己実現なり。 自分がやりたいと思ったことを実行するにはそれなりのエネルギーが必要です。しかし人生というのはその連続です。“遊び”は子どもの欲求ランキングでは1位、2位でしょう。まずは遊びの実現によって、その欲求を満たすという訓練と経験を積んでいってもらえたらいいなと思います。それが生きるチカラを養うことにつながると思うのです。

育成は十人十色

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ちょっと育成について考える機会があったので、それについて書きます。 同じ運動は二度と起こらない という意味合いのことはこれまで何度も述べていますが、育成方法に関しても同じです。巷には様々な育成方法や子育て論などの情報がたくさん見られるようになりました。しかし料理と違って生身の人間ですから、レシピ通りにやっても同じようにはいかないというのは周知の事実です。(おそらくはプロの料理人してみたら同じ味は二度と作れないと言うでしょう) にも関わらずあたかも一つの成功例が唯一絶対的な正解で、普遍的な理論のように流布してしまっています。そして子どもの運動指導に関わる人間、または親がそれを踏襲して実践しています。“2人として同じ人間は存在しない”のにです。 これは私の推測ですが、一卵性双生児に対してまったく同じアプローチで育成をしても、同じパフォーマンスを持つ選手にはならないでしょう。とは言っても完全に個別化して育成プログラムを組むなどというのは現実的ではありません。 ではどうするか。 集団の年齢、特徴、能力などを把握したうえで、最大公約数的にアプローチするというのが、出来得る中ではベターな方法と言えるでしょう。学校教育などがこれに当たるでしょうか。個を重視するといっても、どうしたって子どもを個で育てることはできません。 それぞれの年代において大切なことを、適切な順番で適切な量をこなしていけばそれなりには育つと思います。その中で必要に応じて個の対応をすればいい。そういった判断ができる大人が増えて欲しいものです。冒頭の料理の例で言えば、肉じゃがを作るにはまず野菜を切ること、肉を炒めること、醤油や味醂を使って味付けをすること、そういう行程の理解がまず先決です。正確でなくてもいいのです。そういうことをある程度の振れ幅の中で出来ていれば、そんなに変な味にはならないと思います。その上で個の対応、つまり好みに応じた味付けが意味を成すのです。塩気が足らなければ足せばいいし、火が通ってなかったらもう少し火にかければいい。育成と料理のどちらのケースにしても、大事なのはどういう人間、どういう味にしたいかということを考え、必要なことを行なっていくということ。 思い通りにいかない、理論通りに事は運ばない、そういうことを認識した上で、あまり細かいことは気にせずに、まずはざっくり適