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運動というメロディーを奏でる

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1年前、娘が習い始めたのをいい機会として私も娘の教本を使って練習し始めたピアノ。私は子どものときにもピアノを習った経験はなく、右手と左手が別々に動いて違う音、メロディーを奏でるということが自分にはできないと思っていました。しかし娘の進度に沿って教本を進めてみると意外にもできるようになってきて、娘の発表会の曲もなんとか両手で弾けるようになりました。 「練習は不可能を可能にする」とは小泉信三さんの言葉ですが、運動に限らずこんなところでも実感できた嬉しい出来事。 さて、今回の記事の主旨はそこではなく、メロディーはあくまでも流れを伴って成立しているということ。楽譜を見る必要がないぐらい弾き慣れた曲でも弾き間違えて止まった時、そこからスタートすることができないのです。一度リズムが止まってしまうと、途中から入るのはとても難儀です。もちろん私のピアノの実力がその程度だということなのですが、とはいえメロディーの中では弾けるのに一小節だけを抜き出すのができない。何なら音階すらも分からなくなってしまいます。それで初めから弾いてみたり、前後を弾いてみると思い出したように指が自然と動いてくるのです。 これって、運動とすごく似ています。運動もある部分だけを取り出して練習することは私はあまり良い手段だと思いません。金子明友先生の言葉を借りれば運動も一つのメロディーのような流れがあって、それを分断することはできないとのこと。 投球動作を例にとってみても、テイクバック、加速局面、リリース、フォロースルーなどをそれぞれの部分を練習してあとでつなぎ合わせることはできません。またどこかに問題が生じてそこの部分だけを練習しても問題は解消されないでしょう。むしろ問題と見える部分自体は問題でないことも多いです。運動は前後が伴って初めて成立するのであって、言ってみれば初めから終わりまでが一つの運動です。運動が起こっているときには運動はすでに終わっているというパラドックスのような見解もあるほどなので、いかに頭の中で、いや、身体で感じるひとまとまりの動感が大事かが分かります。 昨今ではテクノロジーの進歩により連続写真やスーパースロー再生の精度も上がっています。しかしそれが故に指導者はマクロな動作エラーばかりが目につくようになり、一つのまとまりとしての運動が見えていないケースが

考えるチカラ

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これからの時代は考えるチカラが必要 と言われて、否定派の人はおそらく肯定派よりも少ないのではないでしょうか。 考えるチカラ 決めるチカラ 考えを発信するチカラ これが今の子どもたちには不足している気がします。 例えば休日一つの過ごし方をとっても、どこに行きたいとか、何が食べたいとか、何がしたいとか、そんな自分の過ごし方でさえ考えを巡らせ、そして決めることができないということが実際に起きています。 原因はいろいろあると思います。 休みの日になって、朝車に乗れば黙っていたってどこかの場所に着くし、お昼になって席に座れば食べ物が出てくるし、そもそも休日の予定は大人(親)が決めてしまっている、、、。 もしかしたらという仮説ですが、大人(親)が忙しすぎるのかもしれません。忙しいとどうしても子どもに考えさせるという機会や会話を持たなくなります。何事でも答えを教えてしまえば楽だし、時間だって短縮できます。 でもこの問題、紐解いてみれば、誰もが通ってきた道なのです。正確にはほぼすべての人がとなるのですが、それは学校教育です。 朝、決められた時間に行ってチャイムが鳴れば朝の会をし、次のチャイムが鳴れば望むか望まないかに関わらず算数の授業が始まり、またチャイムがなれば望むか望まないかに関わらず(どんなに集中していようと)そこで授業は終わります。給食も1ヶ月単位で出されるものは決まっていて出てきたものをただ食べるだけ。こうして学校の1日というのは考えるという作業をせずに流れていきます。 極端な言い方をすればこの流れは高校もしくは大学、つまり社会に出る直前まで続きます。そこで突然社会に放り出されて考えるチカラを求められても、、、というのが新社会人の言い分かもしれません。 ではどうしたら考えるチカラを養えるか ですが、これはもう考える機会を与えていくしかないのではないでしょうか。「なぜから始めよう」といった本にもあるように、事の大小を問わず、ある決断事項に対して考えをめぐらせ、(根拠を持って)決断する。このこと自体がトレーニングとなっていくのだと思います。 大人(親)の立場として大事なのは“選択権を子どもに与える”ということでしょう。選択された子どもの意思を尊重しなければならないリスクも当然伴いますが、選択、決断という作業をせずに大人になって