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全国大会の賛否について

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全日本柔道連盟が、全国小学生学年別大会を廃止したというニュースが話題となっています。 為末大さんなどもコメントをしておりますが、私なりに頭を整理する意味でこれを書いています。賛否両論あるのは承知の上で、双方の観点から見てみることにします。 まず、廃止すべきだという意見について(勝利至上主義の弊害) 1.勝利至上主義によるスポーツマンシップの欠如 勝ちを目的とした場合に、それに固執するばかりにスポーツマンとして大事な考え方が損なわれる可能性があります。反則点を誘って逃げ切るとか、相手に嫌がらせをするとか、勝てば官軍と言わんばかりに勝つための手段をぜんぶやるということが考えられます。 2.勝利至上主義による競技の早熟化と伸び悩み 小学生で勝ち(タイトル)を目指すと、勝つための技術や戦術を先行させて長期的な視野での競技力向上でなくなる可能性があります。例えば多くのスポーツでは小学生においてはミスをしない方が勝つのでそういう戦術を植え付けてしまうし、もしくは力や体格など一芸に秀でている方が勝つので、(他の技術はお粗末でも)ある特定の能力に特化した選手が作られてしまいます。物事には段階というものがあるので、長期的な段階を考えずにその時だけ必要なことを手に入れようとすると長い目で手に入れるべきものが手に入らなくなるリスクがあります。 3.主体性の欠如 全国大会のような大きな大会になればなるほど、勝ちたいのは大人です。私自身もいくつかの全国大会を目にしてきましたが、本当に子どもよりも大人が必死なのです。子どもの品評会よろしく大人があれやこれやを支持してロボット化していきます。その結果子どもは考えることを放棄して大人の気のすむように行動するようになります。その先にあるのは主体性に欠いたまま大人になっていく姿です。当然のことながら競技の伸びしろは少なくなります。 4.勘違いする 全国大会に出るまたは、そこで勝つようなことになると、どうも自分はそのスポーツでは秀でていると思ってややもすると天狗になってしまいます。それはそれで自信という意味では良い気がしますが、タチが悪いのは大人がそうなってしまうことです。親や指導者が舞い上がってしまい、あたかもスーパースターを扱うように子どもを扱っていくことになります。「強いことはすごいことだ」という勘違いが人間としての成長を阻害してしまう可能性

子どもが辿る道

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近年、中学受験の割合が高まっていて、それに対する準備として塾に通う割合も高まっていると同時にその年齢はどんどん早まっているという傾向があります。私が普段接している子どもたちも例に漏れず小学4年生、早い子は3年生から塾に行き始めます。 「あなたはなぜ塾に行くのですか?」 この質問を小学4年生に問うてみると、どんな答えが返ってくるでしょう?子どもが答えることは想像に難くない気がします。 1.親または学校の先生が行けと言うから(行った方が良いと言うから) 2.周りの友達が行っているから 3.受験のために必要だから この3つの答えが大半を占めるでしょう。いずれも主体性に欠けた答えかなと思うわけです。3は一見主体性があるように感じますが、では次の質問をした場合はどうでしょうか? 「あなたはなぜ受験をするのですか?」 これに主体的な答えをもっていて自分の言葉で説明ができる小学4年生が果たしてどれほどいるでしょうか。先の質問で3と答えた子どもはきっとここではこういうことが考えられます。 「良い大学に行くため」 「良い高校に行くため」 意地が悪いと言われそうですが、そうなるとこの質問が次に来ます。 「なぜ良い大学に行くのですか?」 予想される答えは「良い会社に就職するため」ということが考えられますが、以下のように続いていくと、、、 「なぜ良い会社に入りたいのですか?」→「お金を稼ぐため」 「なぜお金を稼ぎたいのですか?」→「なんでも買えるから」 「何が買いたいのですか?なぜですか?」→「・・・。」 となります。 最後のところまで答えられたら本当に主体的に考え自分の意志で進路選択をしていることになりそうですが、そんな小学生はおそらく殆どいないのではないでしょうか(大人でも少数かと思います)。 そもそも良い高校、良い大学、良い会社って何でしょうか?その定義は子どもにはできないでしょうし、その定義は時代によって変化をしています。おそらくはその時々の親または身の回りにいる大人の価値観に侵されている可能性があります。 そもそも現在ある職業の多くが10~20年以内になくなると言われており、裏を返せば今の子どもたちは今は無い、または今の大人たちが知らない職業に就く可能性が高いと言われています。(ちなみに、恐ろしいかな「現在の職業の約半数が10~20年以内に人工知能やロボット等で代替可能になる」と