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子どもに必要なのはトレーニングではなく多様な刺激

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前回の反省を踏まえ、今回は最初にタイトルを設定しました。 前回の記事で子どもの運動能力が伸びるのに必要な要素を私なりに挙げました。 それで、子どもに対してのトレーニングはいらないと以前から書いていますが、やはり何かを狙って何かをするということは子どもにはそぐわないと思うのです。 子どもにとっては行為自体が目的であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。 それを大人がアジリティのための鬼ごっこだとか、体幹のための手押し車だとか、後から論理的にやろうとするから話が歪むだけのことです。鬼ごっこは鬼が逃げる人を全力で追いかける遊びでそれ自体が楽しいからやるわけです。 で、全力で走るという体験、動く対象物をあっちこっち追い掛け回すという体験、もっと言えばそれがでこぼこな地面でとなれば、それ自体が刺激となって子どもに伝わります。 そういう刺激が運動経験値として蓄積され、運動財を成していくわけです。その運動財が、「まだやったこともないのに、やらなくても分かる感じ」、「もっとうまくやるには、失敗しないようにするには、どうすればいいか分かる感じ」を引き出し、カンやコツとして何かの際に表面化してくるわけです。 それは黄色と青を混ぜたら緑ができるような、そんな感じだと思うのです。 そしてできた緑に赤を混ぜると茶色になる。 そういう反応がいわゆる運動能力です。 料理で言えば肉じゃがの味付けに出汁と醤油と酒と味りんをどの割合で配合するか。 計らずになんとなく入れて思っていた味になるか。 そういう感覚的な調合が運動能力です。 この辺の理解が進むと、器用さ巧みさと混同されているコオーディネーション能力というのが何なのかということが少し分かってくるのだと思います。はっきり言って読者にとっては私のこの支離滅裂な文章を読んで理解するということ自体がコオーディネーションです(笑)。 それで、色の例で言えば少なくとも赤青黄の絵具の三原色は持っていないと他の色は作れないですし、料理の例で言えば醤油がしょっぱくて、味りんは味に丸みを出すとかいった経験知が無ければ混ぜ方だって分かりません。そういう混ぜる元になるものをいっぱい持ってると多数の応用が効くということです。(追記:意外と理解されていませんが、足すだけじゃなくて引くということもかなり重要です。) やったこと

子は勝手に育つ

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少し前に『 子どもにフィジカルトレーニングは要らない 』という記事を書きました。 では子どもの運動能力はどのように伸ばすのでしょうか。 wait a minute,,, そもそも“伸ばす”のではなく、“伸びる”ようにするには という発想が必要です。 もっと言えば運動能力が“伸びない“要因を排除していくという発想でしょうか。 難しいですね。 心肺機能を養うためにインターバルトレーニングをして、、、 パワーをつけるために筋トレをして、、、 アジリティ能力の向上には切り替えしを練習して、、、 運動連鎖のためにはトリプルエクステンションを習得させて、、、 こんなものは大人がやるべき内容であって、それはそのまま子どもには当てはまらないのです。生理学的、バイオメカニクス的に子どもの運動能力向上にアプローチすることはナンセンスだと思いますし、そもそもそれで向上につながるとも思えません。更に言えば子どもの運動遊びを生理学的、バイオメカニクス的に説明することも不毛だと思います。 では、子どもには何が必要なのか? これまでに何度も言及しているように、運動財なのだと思います。 運動財と書くと難しいですが、つまりは様々な運動体験による運動の経験値です。 運動能力が伸びる要素を具体的に挙げてみると、 1.見たことがあるという経験 2.やったことがあるという経験 3.没頭 の3つでしょうか。 そのために大人、親ができることは何でしょうか。1と2は割とできそうな気がしますね。でも、スポーツ観戦に連れて行く、習い事に連れて行く、はちょっと違います。もしかしたら3に繋がるかもしれないですが。 イギリスの諺にもあるように、『馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』のです。(“ You can take a horse to the water, but you can't make him drink. ”) 見る機会というのはどこにでも転がっています。でも“子どもの運動能力のため”にそう行動するのではなく、自然発生的でいいと思うのです。親が楽しそうにサッカー見てたり、公園に遊びに行ったら誰かが野球やってたり、そんなものです。それでやってみようかなって思ってやってみる。やってみたらできなかった。もう一回見てみる

あそびに大人はいらない

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昨今の遊びブームは大人が「子どもは遊んだ方が良い」と勝手に用意したもの。 でも遊びというのは本来誰かが用意するものではないのです。自発的に発生し、遊びはそれ自体が目的で、それ以上でもそれ以下でもない。そこに大人が入ることで遊びの空間は歪みます。 例えば、大人がサッカー遊びを用意したとしましょう。ゴールしたのかしてないのか、ファールかファールじゃないか、チーム分けで実力差が出た場合、そんなシーンになると決まって大人の方を見ます。 「今のはゴールですよね?」 「それはファールですよ!」 「そっちのチームの方が強いなぁ、、、」 そんな訴えになるわけです。 それで大人が裁き役になることとなります。 でも本来は子ども同士で解決すべき問題。納得いかないなら言い合えばいいし、喧嘩だってすればいいのです。それで言いたいことを言わないと損をすることを学ぶかもしれないし、相手を尊重することだってそこから得られることの一つになるでしょう。 ルールだって子どもたちだけで決めればいい。そうして「こうしたらもっと面白くなる」とか「どうしたら接戦になるか」とか発想力を刺激することになります。 今の子どもたちは自ら判断をする能力が乏しくなっていると言われています。逆に決められたことを実行する能力は上がっているような気がします(やらされる能力)。これは考えて実行するという機会が激減しているからに他ならないと思うのです。また、議論をすることもどんどん苦手になっているような気がします。言いたいことも言えずに飲み込む。平たく言えば巷でよく言われるコミュニケーション能力の低下ですよね。 あーだこーだ言いながらお互いの折り合い点を見つけたり、自分の主張をなんとしてでも通すというプレゼン力だったり、そういった能力は子どもたち同士のあそびの中で育まれていくと思うのです。以前「 あそびの可能性 」という記事を書きましたが、こんなところにもあそびの可能性というのは感じられます。 今のご時世ですからあそぶ環境を用意するのは大人の役目かもしれません。でも、ああしろ、こうしろというのをぐっとこらえて見守るのも大人の役目です。ただそこにある空気のような存在、そうなれたらもっと子どもが子どもらしくいられるのではないでしょうか。

現代人が手に入れたもの

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20時間5分 1889年、現東海道本線が全線開通したときの新橋~神戸間の所要時間です。 そこから128年を経た今、東京~新大阪間は2時間22分だそうです。 8分の1以上に短縮されたことになります。 リニアモーターカーが開通した時の試算は1時間7分だそうです。 それにより出来るようになったことは増えたのだと思います。 例えば移動が短くなった分、労働時間は増えたことでしょう。 現に日帰り出張は増えたようです。 128年前には考えられなかった世界に今私たちはいます。 このようなパラダイムシフトは次々に起こっています。 飛脚が運んでいた手紙はメールやチャットで即座に届くようになり、 地球の反対側の野球やサッカーがリアルタイムで観戦でき、 買い物もわざわざスーパーやデパートに行かなくても、朝頼めば夜には手に入るようになりました。 そんな科学の進歩によって現代人が手に入れたものは何でしょうか。 モノ?情報?幸せ?豊かさ?充実感? いえ、私は「時間」だと思うのです。 働き方改革という言葉が一人歩きをしていますが、そんなことをしなくても労働は機械によって代替され、人間が働かなくてもよい時代はそんな遠くないのかもしれません。 そして現代人の2人に1人は100歳まで生きると言われています。 100歳まで生きるのに40年間8時間労働をしなくて済む時代がきます。 そんな生活は私は想像できないのですが、その波は押し寄せているということは感覚的に感じています。 結果として、間違いなく時間が余ります。 ところで、 自転車、車、エスカレーター、エレベーター、セグウェイ、、、 移動手段もこの100年で激変しています。 トレーナーという立場で「日常生活の運動量が著しく低下したから運動しましょう」なんて言うつもりは毛頭もありません。それでも人間の適応スピードを超えるスピードで身体活動が必要なくなっているので、それが100年ライフにどう影響を与えるのかは分かりません。 話しは戻って、 人が生きる上で余る資源が“時間”になる。 その時間をどのように使うのか。 私自身も分かりません。 どのように準備したらいいのかも分かりません。 ただ、同じ資源であるならば楽しく使いたい、そう思います。 みなさんは、どのように時間を使いますか

運動指導のバイブル

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『 運動感覚の深層 』という本を読んでいます。 今回の投稿の結論を先に述べますと、これは身体運動を指導する人間は必ず読むべき本だということです。「 わざの伝承 」と共に。 著者の金子明友氏のファンの私としては、出版された2015年の2月から2年半も経ってからこの本の存在を知ったことの恥と後悔の念を抱いています(知った刹那に購入した)。ファンと言ってもお会いしたこともなければ講義を受けたこともないのですが、、、以下、氏を崇める意味で金子先生と呼ばせていただきます(以下登場する恩師とは異なる人物です)。 私と金子先生の本の出会いは人前では絶対に読んでいる本を見せない恩師が一瞬隙を見せた際に偶然目に留まった「わざの伝承」というタイトルの本でした(今思えばこの出来事が本当に大きな分水嶺となりました)。運動指導者を生業としていくにあたって右も左も分からなかった私は、なんとか恩師の知見に少しでも近づきたいという思いと、あまりにインパクトのあるそのタイトルに惹かれて高額な本ながら即購入しました。 読んでみたら衝撃の内容で、運動学という学問の深さと運動指導の難しさを思い知ることになったと同時に、恩師の指導の理解が俄然深まりました。言葉にするのが非常に難しい運動指導という分野を活字で伝える困難は察して余りありますが、それを成し遂げた金子先生の凄さは称えても称えきれません。氏の知見は浅学の私にも腑に落ちるものばかりで、金子先生の本と出会わなければ今の私はないと言えるほどのものでした。 大事なことなので繰り返しますが、運動指導者は必ず知っておくべき知見です。技術コーチもトレーナーも関係なく、運動指導に携わる人は全てです。 個人的に気に入っているところを抽出すると、 “アキレス(うさぎ)は絶対に亀に追いつけない” というゼノンのパラドックスや、 “同じ川に2度入ることはできない” というヘラクレイトスの哲学思想。 これらを巧妙に運動学にあてはめていく様にすっかり虜になりました。 それで、ここまでが前置きです(笑)。今回なぜこんなことを書いているかというと、90歳を迎えて新たに上梓された冒頭の本には「わざの伝承」からの15年の月日の流れも汲んでおり、新たな知見も含まれた内容となっていることに驚きを感じずにはいられなかったからです。その中の一つに、今私のホッ

子どもに求めるもの

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先日とあるショッピングモールでたまたまあったハロウィンランタンづくりというイベントに参加してきました。そこで感じたことをちょっと書きます。 簡易ランタンキットを組み立てて装飾をするという単純なものでしたが、子どもの思いを差し置いて親が率先して綺麗に仕上げていく、、、それはそれはきれいに。 で、それって意味ある?何のため?学校で成績がつくわけでもなく、順位づけもなければ何かの賞がもらえるわけでもないのに。100歩譲って家に可愛らしいインテリアとして飾るため、、、だとしても子どもの思い描いたものは形にならないのでしょうか。 それでいて子どもに対しては「ちゃんと考える大人になってほしい」「自分の思いを実現できる大人になってほしい」というから本末転倒甚だしい。親になったら母子手帳と一緒にルソーのエミールを必読書として課したら良いのに。 ところで、先日のNHKで『変貌遂げる甲子園への“道” 』と題して6歳の小学生に対して動作解析を元に指導するという特集がありました。リンクは こちら 。これについては浅学菲才の私が語るより弘田雄士さんというコンディショニングコーチがとても分かりやすい見識を述べていますのでそちらを参考にしてください。『 あなたは大丈夫?絶対間違えたくない子供の教育投資に真に必要なもの 』 キネステーゼ(強引訳:運動感覚または動感)を交信する言語手段を持ち合わせていない子どもに運動指導なんてできるわけがないのです(子どもがキネステーゼを持ち合わせていないわけではない)。ましてや番組を見る限りサイバネティクス的に可視化できる外見からのアプローチに見えます。それが何を生み出すのかは冒頭の工作を綺麗に仕上げる親の行為と同様、私の理解の範疇を越えます。その不毛な行為に50分1万8000円、、、。そのお金と時間をどう使うかはそれを持っている人の自由であり需要と供給の市場原理が働いてるわけですから私がどうこう言う権利もありませんが、親を選べないその子どもの不憫でならないと感じるのと同時に、その子の将来がどうなっていくのかある種の興味があります。 しかしながらここでの問題は親だけにあらずです。そのサービスを提供している指導者は、本当にそれが子どものためになっていると思っているのだろうかという疑問を抱かずにはいられませんでした。以前

勝負の経験を時代の遊びに垣間見る

「今の子どもは人前で負けるという経験が少ない」 今の職場での研修でそんな話がありました。 オンラインゲームが普及し、一人でゲームしていて顔の見えない相手に負けたところで誰も自分の負けを知らないというわけです。そういう子どもたち、もしくはそういう環境で育った青年世代はスポーツでも遊びでも現実世界でいざそれが起こると、どう振る舞っていいか分からない。だから負けを認めなかったり、癇癪を起したり、言い訳ばかりならべたりします。なるほどそれは確かにそうだなと思いました。 ちなみに一昔前は同じゲームでもオンライン上ではなく、少なくとも物理的にそこに対戦相手がいる状況での勝ち負けですから、自分が負けたということは少なくとも勝った相手は知っているわけで、そこにいる友達もどっちが勝ってどっちが負けたかは分かりました。しかし、所詮ゲームですから負けたって失うものは何もないんですね。マリオだって命がいくつもあって穴に落ちたってまた復活できました。ファミスタだって負けたらもう一回っていうのができました。お金をかけていないギャンブルも同じでそこにはプレッシャーもなく、勝負の狭間のせめぎ合いみたいなものが薄れていたように思います。現実世界とのギャップはやはり存在していましたね。 その更に前のゲームはどうでしょう。駄菓子屋のピンボールやインベーダーは失敗したら失うものがありました。お金です。ベーゴマやメンコだって負けたらそれを相手に獲られていました。失うものがあると勝負も本気になりますね。勝ちたい意欲、負けたくないってプレッシャーは常にあったのだろうと思います。 そう考えると今の子どもは現実世界での勝ち負けが減っている分、本気で勝負するという経験が不足しています。また社会的にも順位づけをしなくなってきていることもあり、勝負そのものを避ける傾向にすらあると思います。そんな子どもたちにスポーツで勝負論、試合論を説いたって理解するはずもありません。もっと言えば指導者だって試合論を理解しているかどうかも怪しいです。スポーツとは遊びであると同時にゲームであり、勝負事なのです。勝ち負けのプレッシャー、これの経験値の差は大きい。日頃からいかにそういうプレッシャー下でパフォーム出来るのかというのが重要だと思います。 ひょうんなことから子どもの遊びの変化を時系列で考えて

子どもの可能性をそのままに

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先日イグノーベル賞において「猫は固体であると同時に液体でもあり得るのか」という研究が物理学賞を受賞しました。 「猫は液体である」というメタ研究を受けてのもののようですが、その理由を研究者の ファルダン氏は論文の中で、「固体とは、一定の体積と形を保つもの。液体とは、体積は一定であるものの形は容器に合わせて変化するもの。気体とは、そこにある体積を満すべく広がるもの」という一般的な定義に基づき、猫が液体か否かの解明に取り組んだと述べています。実はその定義づけが先日のちょっとした思考と重なったのでそれについて書きます。理科の授業を思い出しながら読んでください。 『子どもの可能性について』 ある資料を作っている際に、子どもの可能性について言及しようと試みていました。 子どもの可能性を、、、 引き出す、伸ばす、広げる、、、などと考えてみましたがしっくりきません。 もともとそこにあるものに対して何かプラスに出来るものではないような気がして。 そこでぼんやりと可能性っていうものを概念的に考えていたときに前出のイグノーベル賞の発表を目にしました。子どもの可能性っていうのは範囲を定めない限り広がり続ける気体みたいなものなのではないかと。 子どもの可能性はこの世に生を受けた時には無限であり、その可能性を制限してしまうのは大人を主犯とする周りの環境だろうと思ったのです。つまり空間のある限り広がっている可能性という気体に対して、大人が範囲を決めてしまう、すなわち輪郭を作り容器としてしまう。するとその容器内でしかその可能性という気体は広がりを持てません。しかも熱エネルギーの観点で考えれば気体は液体よりも熱エネルギーを持っていますが、もし大人による何らかの外力により熱エネルギーを失ったら分子は自由に飛び回ることができなくなり、凝縮という状態変化が起きて液体となってしまいます。液体となったら容器という制限はあるにせよ、その空間いっぱいに満ちていたものが重力によって下に沈みます(容器がなければ形を保持できません)。つまり空間を満たさなくなります。それでもまだ容器の形に合わせる柔軟さをその可能性という液体は保っています。でも更に熱エネルギーを失うとどうなるでしょう。今度は凝固という現象が起きて固体になります。そうなると可能性という物質は容器の形に係わらず形を変えることを許され

フィジカルトレーニングとしての登山

先日山登りトレーニングに行ってきました。 舞台は100名山の中で最も低い山、筑波山(標高877m)。 それでも頂きが2つある山の反対側まで行って帰ってくるのでなかなかの道のりです。 行く度に山登りはとても良いトレーニングだと感じます。 そんな登山のトレーニング効果というものを3つに絞ってちょっと(否、かなり)理屈っぽく書きます。(消費カロリーだとか心のリフレッシュだとかの効果はインターネットに譲ります。) まず特筆すべきは“選択の連続”であるという点。 登りにおいても下りにおいても、踏み出す足をどこに置き、それはどの角度で、どういう形状をしていて、どのぐらいの予備緊張が必要で、ジャンプで跳び越えられるのか否か、、、と挙げればキリがないぐらいいろいろな要素が“毎ステップ”考慮されなくてはなりません。スポーツにおいて、特に球技系は刹那の決断・選択の連続ですから、この毎ステップ選択に迫られる登山は本当に良いトレーニングです。ましてや先日は前日の雨で山肌も濡れていましたからより高度な緊張が伴いました。これに時間という軸が加われば時間的プレッシャーを含む多様な心理プレッシャーと戦わなければいけません。実際のところ、競技レベルと山下りのスピードにある程度の相関関係がある気がするので、選択・決断のスピードと精度が問われている証拠でしょう。 次に“制御の連続”であるという点。 制御も前述の選択の一つとも言えますが、選択したステップにおいて自分の身に起こるであろうことを制御して暴れる重心を基底面内に納め、転倒することなく次のステップに移る。特に下りにおいては一気に位置エネルギーを減少させたがる重力加速度と勝負しながら下りるので、それを制御しながら下りなければいけません。ちなみに自由度の制御こそが巧みさ=デクステリティであると旧ソ連の生理学者ベルンシュタインは述べています。まさに登山はその巧みさを養うにはもってこいのトレーニング方法であると言えます。 そしてその仕事量。仕事量というのは単純に言えば『力x距離』で表されます。 例えば体重78kgの私が877mの山を登った場合、 78kg x g x 877m = 68,406 N・m の仕事をしたことになります。 (スタートが海抜0mでないことや途中アップ&ダウンがあることは無視しての単純計算です。) そし

子どもには教育ではなく放育を

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子どもを育てるには、「教えない」のが良いのではないだろうか。 ルソーの消極教育に洗脳されたわけではないですが、近ごろの習い事を見ているとそんな風に感じます。勉強でもスポーツでも文化的なものでも、きっちりと整理されたプログラムがあり、教える方もマニュアル通りに教えているように見えます。 よくあるのが算数で答えは合っていても途中式がないまたは教えた通りでないから不正解というパターン。算数なんて数の概念だから求めているものが求まればいいわけです。それをどう導き出すかは個々のプロセスがあって良いのではないでしょうか。英語だって言語自体はコミュニケーションを取る手段に過ぎないのだから、伝われば役目は果たせているはずなのに正しく整理された英語を小さな子どもに教育しています。 同じ例では他のことでも言えます。投げ方や打ち方を細かく教える野球クラブ、蹴り方やフォーメーションを刷り込ませるサッカークラブ、腕の振り方や脚の挙げ方を統一するかけっこ教室。そう、あたかもそこに正解があるかのように。まるでロボットのプログラミングと同じです。子どもはそういう指導を受けると、それしかやっちゃいけないんだと思ってしまいます。そして「なぜそうしたの?」という問いには、「コーチがそう言ったから」という答えになってしまいます。そこには考えたことも感じたことも存在しません。 子どもはロボットではないのですから、プログラミングは必要ないわけです。プログラミングをされた子どもはそれしかできなくなります。以前、『 アスリートが育つ環境 』と題して書いた記事にはスラム街から出てきたアスリートのお話をしましたが、“教育”が整備されればされるほど、特出した人材は生まれてこないのではないかと思ってしまいます。 帰納的学習法。 コーチの役割はバリエーションを提供して偏差的学習とする。 こう言ってしまうと何やら話が難しくなりますね。 なので、、、 子どもには、教えない。 教えない、運動クラブ。 それでいいんです。 答えはそこにあるような気がします。 ヒップエクステンションを動力源とする トリプルエクステンションの後方への応用(なんちゃって) ※ちなみにタイトルにある“放育”は記事を書いている時に思いついた造語です。(すでに使われてる方がいるようですね)

ファンクショナルトレーニングの究極系は競技そのもの

ファンクショナルトレーニングという言葉が世に出回って久しい。 最初にその言葉を聞いたのはいつだろうか。10年以上は経っているかもしれない。 で、そのファンクショナルトレーニングって何でしょう? 調べてみても定義は体幹とかゼロポジションとかといった他の用語と同じく曖昧なようですね。 私自身は恩師(と勝手に思っている)から教えてもらった 『ファンクショナルでなければトレーニングとは言わない』 という言葉を大切にしており、それを聞いて約10年になろうという現在、至極真っ当な意見であったとどんどん腑に落ちていく感じが止まらないのです。私なりの言葉で言い換えるなら、行なっているトレーニング内容の合理性、つまりどのような運用がなされ、パフォーマンスの向上につながるかということが理論的、論理的になければならないということです。 ところが最近流布しているファンクショナルトレーニングと言われるものを見ていると、どうも競技の動きに似せたものや、現存するトレーニングではない目新しいものを目指しているように見えることが多々あります。原理原則を外さないよう指導を受けた私にとっては違和感を感じずにはいられません。むしろ同業者としては残念な気持ちになることもあります。しかしトレーニングの真理というのは私も分からないですから、結局は個の意見、個のコンセプトというところに落ち着くのでしょう。 でも例えば思い切って前述したようなファンクショナルトレーニングを発展させていった場合、それって最終的には競技の動きになるんじゃないの?と思ってしまいました。(それが今この記事を書いている発端です。) なるほど、それではその競技の練習をガシガシやれば良いわけですね。それ以上のファンクショナルトレーニングはないでしょう。負荷が必要っていう意見にはウエイトベストを着たり重い道具を使ったりして。発想としては面白いですね。それで結果が出ればファンクショナルトレーニングの真理ここにあり!と言えるでしょう。 しかし私個人の意見では本来フィジカルトレーニングというのは競技の練習とは別物です(というよりは競技トレーニングの一部がフィジカルトレーニング)。究極的にはフィジカルトレーニングをガシガシやって、競技トレーニングもガシガシやった結果、パフォーマンスが上がるというのが理想です。そこにはフィジ

子どもにフィジカルトレーニングは要らない

スポーツ界においてフィジカル、フィジカルって叫ばれて久しい。 今回は、でもそれって本当に必要? って話。 特に子どもに対して。 大人のステージで成熟したアスリートにとってフィジカルトレーニングが必要なのは分かります。計測競技の100分の1秒のため、採点競技の1点のため、球技の5cmのコントロールのため、コンタクトスポーツで相手を打ち負かすため、金箔を一枚一枚重ねて貼っていくようにパフォーマンスに上塗りを重ねていく作業。これは分かるし、私にもそれを行う自信のようなものは少しはあります。 でも未成熟の子どもにも同じように当てはめようとしてないでしょうか。そもそも子どもは単純に言語が未熟だし、ましてや感覚を言語化して伝えられるわけがないのです。腕の振り方、脚の挙げ方、重心の扱い方、説明して理解するわけがないのです。(当然、実行できない) 誰が言い出したか、体幹が大切だの、インナーマッスルが大切だの、可動域が大切だの、呼吸が大切だの、股関節が大切だの、、、それが子どもにとって大切でないとは言いませんが、スポーツ科学の発展により“後付け”で分かったことを、それも大人にとってはたぶん(大人にとってだって“たぶん”の域を抜けない)大切なんじゃないかなっていうことを、それは当然子どもにだって大切だろうって言ってしまう。そう言っている人に悪気はないのだろうけど、そんなのは大人のまやかしでしかない。 日本人が日本人の子どもに言葉を教えるのに、『あ』の発音の仕方を教えますか? “熱い”と感じた時には『熱い!』って言うんだよと教えますか?少なくとも私は教わった記憶はないし、教えることができるとも思いません。そんなのは見聞きしたり、概念的に勝手に覚えていくものだと思います。“apple”の最初の音を『エの口(くち)でアっていう音を出す』とか『アとエの中間の音を出す』とか言うのは言語理解が進んだ大人になってからの話。つまりそれは“感覚的に学習する時期を逸した”からそうするしかないのです。 身体運動も同じ。適当に遊ばせていればいいはず。ブランコだって滑り台だって誰もその遊び方は教育しないのでは?スポーツだって結局は遊びだからブランコとか滑り台と同じで教育はいらないのです。速く走るのに腕の振り方を教えなくたって“速く走ろうと思うこと”を誘発したり、単純に速く走っ

自分がコントロールできることに集中する

今回の記事は表題が結論です。 パフォーマンスを出すためにいろいろなメンタルトレーニングがあるとは思いますが、結局はこれに尽きると思うのです。競技をやっているといろいろな環境要因が出てきます。 組み合わせ 天候(雨、風、気温) 試合時間 試合会場 試合登録メンバー(チームスポーツの場合試合に出られるかどうか) これらのうち、自分でコントロールできることは何でしょう?この中にはありません。 その時、その状況で出来る最高の準備をする。これ以外にできることはないのです。 イチロー選手の有名な言葉にも 「準備とは言い訳や後悔する要素を排除すること」 とあります。 何か集中力に欠ける人というのは自分がコントロールできないことに気を揉みすぎていると思います。もしくはそこに逃げ口を用意しているのではないでしょうか。 今、自分にできること。 それを実行する。 それだけでパフォーマンスというのは変わってくると思うのです。

扉との競争

『扉はどんどん閉まっていくんだ。その扉が閉まり切る前に向こう側へ行かなければならない』 ドミニカのウインターリーグに行った際にとある選手が言っていた言葉です。ここで言う“向こう側”とはメジャーリーグを指します。ドラフトされた時点から(もしかしたらそのもっと前から)扉は閉まっていくのです。 扉は待ってはくれない ゆっくりにもなってはくれない 一定の速さで閉まり続けている 問題は自分が速く進むか否か 足踏みしている暇はない 足を止めている間にも扉は閉まり続けている 足を前に進めない限りは扉の向こうへはいけない 時間はない やるべきことはなにか それを実行できるか これは同選手は言っていなかったことですが、厳密に言えばその扉へ向かうのは一人ではありません。通勤ラッシュ時の都心の電車のドアのように皆がその扉を目指します。その状況を想像できるかできないかで日々の取り組みは変わります。アスリートというのは常々大変な職業だとつくづく思います。 とは言え、アスリートに言えることは一般職にも言えるはずです。一つのprofessionを全うするprofessionalならば。 今回も自戒の念をこめて。

あそびから得るもの

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先日、とある運動指導 (という言い方は烏滸がましいのだが) のクラスが終わった後の出来事。 最初は課題として出していたバランスボールを使ってバランス系の種目を練習していた小学生たち。ある瞬間からそれは別のあそびに変わりました。 自分の体ほどのバランスボールを両手で抱えて互いにぶつかりあう。 ただこれだけのあそびでしたが、それはそれは楽しそうにやっておりました。ぶつかってはどちらかまたは両方とも弾かれ、転び、また立ち上がりぶつかり合う。たまにボールが飛ばされて取りに行った隙に後ろからボールを当てられる。 via GIFMAGAZINE イメージ動画(前述の小学生とは異なります) 実はこの日の運動のテーマは方向転換と体幹 (←この言葉あまり使いたくないですが) 。 でもその後のバランスボールでのあそびを見ていると、そこにはいろんな要素が入っていました。   ぶつかった時にオフバランスになるのを耐える   倒れないように踏ん張る   重心を低くする   相手にフェイントをかける   そのフェイントに対応する   どの方向からボールまたは人が来るか見渡す(感じる)   投げる、捕る、蹴る 真面目に方向転換だの体幹だのプログラムを考えなくても本来はこうしたあそびで十分なのです。知らぬうちにいろんな運動体験できています。大事なのは楽しいこと&夢中になること&そして自分たちで勝手に始めること。たった15分のあそびでしたが運動量は大元の1時間よりもあったような? 特に子どもに対してはスポーツ科学的根拠に基づいた運動プログラムなんて必要ないのではないかと最近つくづく思います。適当にあそばせて、あそび足りないぐらいで帰す。続きはまた明日。その繰り返しでいいのです。我々の仕事はその環境を整え、見守ること。 (あとは保護者の理解を得るべく納得いただける説明を用意すること) また一つ子どもから学びました。 ありがとう子どもたち。

子どもの居場所と社会問題

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最近見つけた2つの記事。 夏休みが忙しい。 小学生の親たちがプランニングに奔走する理由 「専業母と兼業母の出生力」-少子化・女性活躍データ考察-女性労働力率M字カーブ解消はなぜ必要なのか 一見これまでの記事と何ら関係なさそうに見えますが、運動能力の低下が騒がれている子どもたちは被害者だと言えるかもしれません。一言で言えば 行き場所に困っている のです。上記2つの問題が顕在化した今、親御さんたちの言い分は「外遊びが大事だなんて言われなくても分かってる」というのが本音でしょう。 私の少年時代を振り返ってみると、週末こそ野球に没頭していましたが、平日の放課後はランドセルを置いたら真っ先に校庭へ戻り、来る日も来る日も暗くなるまでサッカーなりバスケなりドッジボールなりに明け暮れていました。またある日は近くのマンションの中庭でカラーボールとカラーバットで野球。これはいわゆる遊びの野球。別の日にはそのマンション全体を使って鬼ごっこ。(今思えばさぞかし迷惑だったことでしょう) 夏休みはと言えば上記に加えてプールがあるので、朝からプールへ行って、昼食べに帰って午後からまたプール。夕方から野球orサッカーorバスケorドッジボールor鬼ごっこ。 どのケースも親の下ではなく、子どもたちだけで遊んでいました。 さて、なぜこれが先の記事のような世の中に変化したのでしょう。 仮説1:公園の減少 調べた結果、公園は減っているどころかむしろ増えていて、仮説は否定されました。ただし、ボール遊びを自由にできる公園は減ったことは事実ですね。 仮説2:犯罪率の上昇 調べた結果、犯罪率は減少していることが分かり、こちらも仮説は否定されました。ただし、見方を変えれば「犯罪情報を得る機会が圧倒的に増えた→親が危険と判断する→外に出さないorPTAや地域の住民で守る→犯罪が起きにくい」ということも言えるわけで、一概には安全になったとは言い切れません。 仮説3:遊び方を知らない 時間も場所もあるが子どもたちが遊び方を知らない。もっと言えば親も知らない。 いずれにしても外遊びが出来ない環境になっていることは間違いなさそうです。それは地域の安全や遊ぶ環境整備を含めた行政の問題でもあり、親の認識の問題でもあります。テクノロジーの問題を挙げる人も

運動の習得の適齢期

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運動の学習には適齢期というのがあって、それを逃すと到達できる上限というのは決まってしまいます。 幼い子供の頃、砂場で山を作っていた時、土台の平らな部分を作ってから上に砂を積み上げていったことを記憶していますが、その土台の部分の直径で上に積みあがる砂の高さは決まってしまいます。 私は運動もこれと同じだと思っていて、ある程度大人に近い年齢になってから運動能力を高めようとしたところで、辿りつける頂きの高さは限られてしまいます。先の砂山の例で言えば、途中から「あ、もう少し高い山を作りたいな」と思っても、一番下の土台の直径を大きくすることができないのが運動の習得です。何とか水で固めるなどして工夫をすることはできますが(別言すればトレーニングを一生懸命やることはできますが)、それでも積み上げることのできる砂の高さには限界があります。やはり土台の直径が大きい方が勝るのです。 その土台の直径の大きさを決めるのが運動体験です。多種多様な運動体験を幼いうち(できれば未就学時期)に行うことで、土台の直径はどんどん広くすることができます。ある時間が経つとそれ以降は「はい、土台作りはもう終わりなのであとは今作った土台の上に砂を積み上げるだけにしてください」となるわけです。おそらくはそれが小学校中学年期ぐらいでしょうか。科学的根拠はなく、あくまで私の経験則からですが。 そこから先はいかに上手く水を使って固めながら砂を積み上げることができるかという勝負ですね。それがいわゆるトレーニングです。トレーニングの質が同じならば土台が大きい方の勝ちですよね。 話は変わりますが、先日英語の指導をする機会がありました。聞けば英語を使って仕事をすることを目指すと言います。しかし当人は受験をした経験がなく、大人になってから文法や単語をスタートさせるという状況です。これはとてももったいないことです。受験英語がある程度貯金として残っていればそれを基に高いレベルの英語を習得する、または応用実践に入ることができます。 また数学においても因数分解をやりますって時に九九や割り算が出来なかったら、皆が因数分解をやっている時に九九や割り算からやらなければいけないことになってしまいますね。 運動においても同じことが言えます。ある動作の習得を狙ったときに、その基盤となる運動体験がな

あそびの価値と意義 ~グーツムーツの主張~

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「力や器用さの不足は、市民社会に多くの問題を引き起こし、病気や身体的忍耐力の不足はまさに我々市民の教養人を悩ませる。文化界の教養人階層の非常に重苦しい病は、無気力で、安楽癖であり、身体的努力に対する嫌悪である」 これはドイツの教育学者(体育学者)であるグーツムーツによって著された『遊戯書』(Spielbuch. 1796)に関連したところで200年以上前に述べられた一文です。先に述べますが、本記事の「」で記された部分は以下の森田氏による文献の引用です。 グ-ツム-ツの遊戯論-1-「遊戯書」における遊戯思想と教育的基礎づけ GutsMuths' Theory about Plays and Games (No.1) -His Through and Educational Fundation in "Gamebook" 森田, 信博   ,    MO RITA, Nobuhiro 秋田大学教育部研究紀要 教育科学 (32)  , pp.154 - 167 , 1982-02-01 , 秋田大学教育学部 ISSN: 03870111 NII書誌ID(NCID):AN00010271 リンク: https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 繰り返しますがこれは200年以上前に謳われたもので、日本で言えば江戸の寛政にあたります。驚くべきはその風刺が2世紀を経た今でもなお耳の痛い指摘である点です。 新たな時代に求められるものとして 「誠実さや信頼、強靭な性格、ゆるぎない愛情、楽しさや勇気や男性らしい意識」 である

フォームを変える時の違和感

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ある動作の様式を変える時、分かりやすく言えばフォームを変える時、そこには多分な“違和感”が伴います。 動作様式を変えると一言で言ってもそれはすなわち今まで慣れ親しんできた動作を一度壊して、また構築する作業です。 元の動作に慣れ親しんでいればいるほど、またその動作を行ってきた期間が長ければ長いほど、変化による違和感は大きく、また変えるためのエネルギーも多くいることでしょう。 問題はその違和感に耐えられるか   です。 正確にはパフォーマンスの低下に耐えられるか  とも言えます。 パフォーマンスを上げるために変化を求めたのに、その動作に違和感を感じ、諦めてしまうケースがあります。自分の動作を一度壊しているのだから違和感を感じることはもとより、パフォーマンスが一時的に低下するのは当たり前なのにもかかわらず。 利き手でない方で箸を使うことを考えれば想像に難しくないと思いますが、利き手と同様に扱うまでにはそれはそれは多大な労力が必要でしょう。実際に加える変化や感じる違和感はそれほどまでではないにせよ、こういった労力は少なからず必要です。それを耐えて、信じ続けて、新しい動作が慣れ親しむまで繰り返し、新しい動作様式を構築する必要があります。 その結果、元の動作が行えない、またはものすごく違和感を感じる動作になっていることでしょう。そうなったらシメたもので、新しい動作が自分のものになった証拠です。それは元の動作様式が忘却され、新しい動作が無意識化まで落とし込まれたことになります。 ただし、それには指導する側にも根拠と責任が必要で、それがなければ納得して取り組めないし、新しい動作を手に入れるまで継続できないでしょう。裏付けとなる証拠、説明、ゴール、覚悟を持って取り組むことが指導者に求められます。 これには落とし穴があって、理論的には正しいことでも、選手本人が動作を一度壊してまた構築し直すということができずに、結果的にパフォーマンスが下がるというリスクも伴います。そのリスクには今度は指導者側が耐えられずに新しい動作を手に入れる前に諦めてしまうケースもあります。最悪のケースは動作は壊せたが構築できず、そして元の動作にも戻れなかった場合ですね。 そういう動作を壊すとか構築するとかいった作業を左右するのはコツとかカンであり、その背景にはやはりこれまで

(広義での)トレーナーにはその競技経験が求められるか?

ある競技の選手を指導する際、求められるものの一つに競技経験があります。 それに関して、私の個人的な意見を述べるとすれば、「あるに越したことはないが、なくても良い」という至って平凡なものになってしまいますが、大事なのは指導する側の運動財(※)です。 (※運動体験により蓄積された運動感覚、コツ、カンのようなもの。身体知という言葉も類義ではあると思いますが、ここでは私がイメージしやすかった運動財という言葉を使用します。) 動きを見ていて、「あ、今こういう感じ方をしたんじゃないかな」「こういう力の入れ具合でやったらうまくいくんじゃないかな」というような推察はこれまでにそういう感覚を体験した人間にしかできません。指導者がそういった感覚を持ち合わせていなければ選手と感覚の共有を図れることもないし、共通言語を使ってのやりとりもできないのではないでしょうか。コーラやビールを飲んでいるCMを見て美味そうだなと思うのも自己の体験があるからこその感覚です。 もちろんその指導者が指導対象者と同じ競技をあるレベルまで突き詰めていれば指導にも深みが出ると思いますし、選手からの共感や信頼も得やすいのは事実だと思います。でもそうでなくても豊富な運動財があれば、「今ボールが軽く感じたでしょ?」「お尻を使って上手く地面を捉えられたでしょ?」といったように、指導対象者が実践している運動を見てあたかも自身がその身体に入り込んで運動しているかのように感じることができるはずです。 フィジカルトレーニングの指導者で言えばウエイトトレーニングを見て「今の動きだとお尻じゃなくて腿がキツかったんじゃない?」といった摺り合わせになるでしょうし、技術コーチで言えば「あの場面、力んで腕が遅れただろ」といった技術感覚の共有になると思います。 表題に「広義での」と書いたのはフィジカルトレーナーだけでなく、技術コーチも含めてすべての指導者にとって共通に言えることだからです。メンタルトレーナーだって心の感覚の共有は必要ですし、それは栄養トレーナーにとっても同じです。 もちろん指導者自身が到達していない、または体験していないステージの対象者を指導することも多いです(私も含めて実際そのケースの方が多い)。その際にも運動財があれば摺り合わせをすることができるはずです。それでも「やったこ

家庭菜園に選手育成を重ねる

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先日、夏野菜を植えました。 今回は苗から。 収穫が楽しみです。 さて、冬はほうれんそうと小松菜をたくさん作ったのですが、種から育てるときに毎回思うことがあります。 それは間引きの時。 育ちの良い芽もあれば悪い芽もある。 職業病とも言えるでしょうか、それが子どもたちへの運動指導に重なってしまって。 野菜を育てる鉄則としては育ちが悪い芽は摘んでいく。 そうすると育ちが良い芽がより元気になっていく。 早熟が残って晩熟は残らない。 それがなんだか寂しくて。 少し離れたところにポツンと植えてかえてやる。 そうすれば育ちが悪い芽もなんとか成長するチャンスがあるんじゃないかって。 運動指導も同じ。 同世代の中では今は劣っていても伸ばせるポテンシャルはあるはず。篩(ふるい)にかけるのではなく、どうしたらその子を伸ばせるかを考える。 その子が伸びていない理由はなにか。 練習量?運動経験?家族構成?育て方?それとも愛?子どもであればいろいろな要素が絡んできます。なんとかそれを見つけて伸ばしてあげたいなと。いや、伸ばしてあげたいというのはおこがましいですね。私にできるのはその子が伸びる環境を整えてあげること。 伸びる伸びないはその子次第ではなく、環境次第だから。 さて、野菜の話に戻りますと、実際に前述のようにポツンと植え替えた芽が元気よく育ったケースがありました。 そして収穫期には早熟のやつをどんどん収穫する。まだ育っていないやつに育ってもらうために。貧乏性という性格も相まって間引きも極力少なくして、育ちが悪いやつも育ちがいい奴が抜けた後に収穫ができるようにしています。(玄人はそんな野菜の育て方はしないのでしょうけども。) 子どもの育成も似たようなことがありますよね。 植物は正直です。 育て方を間違えなければ応えてくれます。 ところが人間はそうはいきません。 早熟とか晩熟とか、見極めも難しければ、育成も一筋縄ではいきません。 きっとそれが醍醐味なんですよね。 子どもの未来のために勉強します。 こちらは去年の夏野菜 なかなかの出来でした

あそびとスポーツ

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あそびということにハマっている以上、ある程度あそびについて勉強しないといけないなと思い、先日ヨハン・ホイジンガ氏の「ホモ・ルーデンス」とロジェ・カイヨワ氏の「遊びと人間」を読んでみました。結論を一言で言うととても難解でした。が、とてもよい勉強になりました。 両氏は遊びの定義を以下それぞれのように述べています。 ホイジンガ氏の定義 「 遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている。 」 カイヨワ氏の定義 「 ①自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。 ②隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。 ③未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。 ④非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。 ⑤規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。 ⑥虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。 」 よくよく読めば共通しているようです。それは自発的な活動であり、一定の規則を持ち、遊び自体が目的でありつまりは何も生み出さないということ。私の理解では簡単に言えばそういうことのようです。 これって、スポーツ活動と似ているなぁと思いました。 自発的、つまりやりたいからやる。楽しいから、歓びがあるから。やはりスポーツはそうでなくてはならないと思います。(職業としてのスポーツはこれとはちょっと違うでしょうか) あそびもスポーツもそれ以上でもそれ以下でもないんですね。ただ、これま

アスリートが育つ環境

恵まれない環境が真のアスリートを生む という自論について。 前回の没頭の話に通ずるところも多いです。( 競技動機としては没頭が最強かもしれない ) 活躍した(している)スポーツ選手にはスラム街など恵まれない環境でその“競技に類似した遊び”に没頭していたというケースが多いといいます。 ブラジルのサッカーなどはその典型かもしれません。 スマホもインターネットもおもちゃも何もない。サッカーしかないという状況。しかもあるのは何の皮で何年前に作られたもはや丸くないボール。ピッチは落書きだらけの壁と瓦礫に囲まれたストリート。スパイクは無く素足で当然地面は平らではない。 また、私が以前に行ったドミニカでは公園で“バットのような長いもの”で“ボールのような丸いもの”を打っている光景を目にしました。当然、地面はデコボコ、素足、格好は裸かボロボロの服です。少年たちは誰よりも早くその丸いものを投げ、誰よりも遠くにその棒で打ち返そうとする。それは“野球っぽいあそび”でした。 それでも来る日も来る日もそのあそびに夢中になり没頭する。 今日も明日も明後日も。飽きることなくのめり込む。 はっきり言って一万時間なんてあっという間です。 誰よりも上手くなりたい。そんな思いが知らずのうちに備わっています。 そういう状況が“勝手に”真の身体能力、コオーディネーション能力、身のこなし、巧みさ、創造力、発想力、チームワーク、執念を生むのだと思います。もっと言えば雨も降るでしょう。昨日とは地形も違うかもしれません。相手だって飛び入り参加で初めて一緒にあそぶ子もいます。そういった時には対応力、課題解決能力が養われます。そして言い訳はそういったあそびからは聞こえてこないでしょう。 しかも治安の決して良くない中、向かうエネルギーがあそびというスポーツであれば健全なエネルギーの使い方となるでしょう。その競技がなかったら真っ当な人生は送れなかったという声も多くあります。さらには経済的にも自分が頑張ることで家族がいい暮らしができるという想い。逆に言えば飢え死にするかもしれない危機感。戦争の中で育った選手はスポーツで平和を、元気を、感動を届けたいと責任感と使命感を持つかもしれません。没頭とは種類が違いますが、そういった気概も高みを目指すきっかけではあると思います。またアスリート

競技動機としては没頭が最強かもしれない

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少し前に3週連続してちょっとミクロな視点で「型」について書きました。しかし実際のところ、(自分の職業を卑下する言い方になりますが)そういった要素が運動選手としての成功に結びつく貢献度はそう高くないと思っています。(何を成功と呼ぶかの定義はここでは読者の皆様にお任せします) つまり、大胆な言い方をすればフィジカルトレーニングや運動学をいくら突き詰めていっても“たかが知れている”と思います。運動能力を高めるには間違いなくそういったことは必要になるのですが、マクロな視点で見ればかなり断片的であり局所的な要素に過ぎません。 では、何が必要なのかと考えた時に、根底にあるものは何でしょう。この点については以前「 桶の理論をアスリート形成に当てはめる 」で書きました。要は全ての要素においてまんべんなく隙をなくしていく以外にないということです。それを成し遂げるために必要なことを考えた時に、 今のところ私が考えるのは2つで、一つは高みを目指したいという強烈な“欲”か、もう一つは頑張らざるを得ない“切迫状態”のどちらかだと考えます。 欲に関してはもうそのままですから述べる必要はないでしょう。お金、名誉、自己満足、目的は何であれ、ただ単に欲求するということです。 もう一つの切迫状態は日本ではあまり馴染みがないかもしれません。その競技が経済的に裕福になる唯一の手段である場合などが一つの例です。それで成功しなければ家族が食べていけないだとか、目の前の試合に勝たなければ向こう3ヶ月自分の活動資金がないだとか、そういう状況は途上国のアスリートにおいては珍しくありません。ハングリー精神という言葉はあまり好きではないですし、その言葉一つで片付けたくはないですが、分かりやすく言えばそういうことです。 こうして考えてみると好きなことに対する欲を持てる前者、そもそも欲を持てるという現実は経済的に余裕のある国、または個人の特権と言えるかもしれません。欲を以て勝負する選手は切羽詰まった選手の競技動機を上回る欲を持っていなければなりません。ハングリーの例えで言えば、3日に1度ありつけるかどうかの飯を目の前にした時、その人の動機を上回る食への欲求を持っていない限りは勝負は明白です。私個人の意見では海外で日本人が通用しないのはこの点において差があると感じることがよくあります。

型からはみ出すために型がある

というわけで前回と前々回の話を関連付けてみます。 型を持つのが大事だと言ったり、型からはみ出すのが大事だといったり、、、 自分でもうまく説明できるか分かりませんが頑張ります。 が、これ↓が結論です。 基本的に私自身が考える私の役目としては、トレーニングを指導するというより、最終的に選手のパフォーマンスが上がれば良いという割り切り方をしています。というかそれが本来のトレーニングの目的です。(ファンクショナルトレーニングなんて言葉を使わなくてもそもそもファンクショナルでなければトレーニングではないので、全てのトレーニングはファンクショナルであるべき) 極端なことを言えばフィジカルトレーニングをして、あとはガンガン練習をすればフィジカルトレーニングが競技動作に「勝手に」運用されて(転化されて)パフォーマンスが自然と上がるというのが理想です。(運用される前提条件が整っている必要があるが) その為に型が必要なのです。その型はヒップヒンジであったり、腹が抜けない姿勢だったり、様々だとは思いますが、とにもかくにも、それが動きの中で普通に運用されるように型(折り目)をしっかりとつけておくということです。実際の競技に入ってしまえば動き方なんかに気を配っている暇も余裕もないはずなので、それは自動化されるまで下意識に落とし込んでいきます。 ここで大事なのは“感覚”です。トレーニング中(分かりやすく言えばウエイトトレーニング中)であればとことん意識を動きの方に向けられるので、この角度ならこの筋をうまく動員できるとか、張力が上げられるだとか、楽に重りを上げられるだとか、そういったことにがっつりと意識を集中させます。そうして(ウエイト)トレーニング中に、「あ、今のうまくいった」「今のは失敗だった」という体験をどんどん積んでいきます。 その上で実際に競技動作をした時に同じような感覚が出てくればしめたものです。それは言い換えれば動きのコツとも言えるかもしれません。「あぁこういう風に力を出せばうまくいくのか」という感覚をいかに引き出せるかが鍵になります。 この辺のことは以前「 アハ体験を共有する 」に書きました。 そこまでいけばあとはどうぞご自由にプレーしてくださいということで。技術、戦術、いろいろあるでしょう。動きの感覚はある程度プログラミングされてますから、勝手に

型の外へはみ出す

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勘のよい人はまずタイトルの矛盾に気づいたと思います。 前回の記事で型を持つためにトレーニングを行うということについて書きました。「 動きの型を持つということ 」 今回はある意味ではその反対の意味合いを持つ記事になります。 とある運動課題だけが与えられたとします。 ・サッカーであれば手を使わずにゴールの中にボールを入れる ・スキージャンプで誰よりも遠くに飛ぶ ・走り高跳びでは誰よりも高く跳ぶ 選手はどのような動作でその運動課題をクリアするのでしょうか。きっと今まで見聞きしてきた動作、指導者に教えられた動作を選択するでしょう。しかしながら、実のところ型にはめられすぎるとどうもうまくいきません。前出の例で言えば順に、どの様に蹴るか、どの様に飛ぶか、どの様に跳ぶかなど、指導された方がパフォーマンスが落ちるケースというのは多々あります。だから指導というのはとても神経を使いますし、下手な知識ではできないです。 先日行ったドイツのライプツィヒではこんなことが言われていました。 「バイオメカニクスが未来の技術を予測したことは未だかつてない」 2週間のドイツ滞在の中でこの言葉が最も印象に残っています。 サッカーのオーバーヘッドキックは自分の位置からゴールと反対側に高いボールがあったときにそれを一撃でゴールに向かって蹴る行為を考えた結果それが生まれたのでしょう。 スキージャンプのV字飛行は、空気(風)を利用して飛行時間を長く保とうと考えた結果それが生まれたのでしょう。 走り高跳びの背面跳びは挟みとびやベリーロールよりも効率よくバーを越えようと考えた結果それが生まれたのでしょう。 バイオメカニクスはその動作を“後から”分析したに過ぎません。 (先駆者以降の競技者が同じ動作をしようとした際の参考にはなったかもしれません。その意味でバイオメカニクスが重要な学問であることには間違いないので、決して不要論ではありません。) それでは、そのような動きはどこにヒントがあるのでしょうか。 ここ最近の記事をお読みになった勘の良い方はお分かりかもしれませんが、やっぱり“あそび”から生まれたのだと考えます。ここで言うあそびには、あそびの中で蓄積された運動知もそうですが、もう一つの意味では心のあそびも含まれていま

動きの型を持つということ

トレーニングにおいてある型を練習する 実際の(対人系or球技系)競技ではそんな動きはないかもしれませんし、その動きを実行する機会に恵まれることなんてほとんどありません。実は意味のないことのようにすら思えます。 それでも私はトレーニングにおいて型を作っていきます。 ではなぜトレーニングでは型を大事にするのでしょう。 それは折り紙の折り目を付けていく作業に似ていると思います。 そこで折るのが一番容易になるように。 また川やグラウンドで水道を作るのと似ているかもしれません。 そこに水が流れやすくなるように。 その行為を意識せずともそれが行われるという回路を作る。 つまり下意識の層へとその動きを潜り込ませていく作業になります。 電気回路でもそうですが、抵抗が最も少ない道を電気は通ります。 生理学的には説明がちょっと異なりますが、神経筋協調も電気回路なので似たように考えられると思います。 逆に言えばそれ以外の動きをしたときに違和感を感じるということです。 その違和感を感じるようになればしめたものです。ただしここで言う型とは単に形を意味するのではなく、以前の記事「 ウエイトトレーニングをしっかりと考える 」でも書したように筋を動員するタイミング、動作を遂行するタイミング、関節角度、筋の緊張度などの内部感覚までを含めた型になります。 むしろ私個人の取り組みとしてはフォーム云々よりもその感覚の訓練という意味合いが強いです。 そうして型ができたら、というより型を作りながら実際の競技をどんどん練習します。トレーニングしたような動きが含まれていようと含まれていなかろうと関係ありません。動作遂行の層が高くなればなるほど(試合に近い状況であればあるほど)動きそのものに意識はいかなくなります。その際に実際の動きでその型が利用されているかどうかを見ていきます。型をしっかりと浸み込ませられていれば、そこでは意識せずとも求める動きが違和感なく引き出せるようになってきます。それは折り目をたくさんつけた折り紙は、角と角を合わせるなどといった意識をすることなく簡単に鶴が折れるようになるような現象と似ています。そしてその折り目が丁寧であればあるほど綺麗に折ることを意識せずに完成させた鶴もきっと綺麗に折られているはずです。 (逆に

真似るということ

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スポーツにおいて、運動の習得はどのように行われるのでしょうか。 大きなヒントがモノマネにあります。 モノマネが上手な人はとても運動能力が高いです。 真似るということは、多くの能力が求められます。 まずは観察力、そして対象人物の内部感覚、加えて行なう人自らの内部感覚。 観察するということは簡単のようで意外と難しいと思います。モノマネが上手な人は特徴をよく捉え、他の人が見えないところまで見えていることが多いですね。 そして対象人物の内部感覚。その人がどのような感じで動いているのかをあたかも自分が動いているかのように感じられるか。その感覚共有がなければモノマネはできません。これに関しては以前「 アハ体験を共有する 」というタイトルで投稿しました。 さらには自らの内部感覚。前述の対象人物の内部感覚を自分の体で表現し、しかも空間上の座標軸において再現できるか。これは相当難易度が高く、なかなかできるものではありません。 このあたりの感覚の共有、そして実現に関しては金子明友先生の『 わざの伝承 』を読むと理解がぐっと深まります。 運動において上達を望むのであればたくさんのモノマネをするといいと思います。目で見たものをまずはやってみる。それで初めて味わう感覚もあるでしょうし、予め予測した感覚との答え合わせができると思います。このあたりは前回の投稿「 1回目の大切さ、難しさ 」でも触れました。 書道の世界には「形臨」「意臨」「背臨」という言葉があるそうです。 形臨 とは、まず形を真似ること。(技術面の習得) 意臨 とは、原作者の意図や様々な背景までを汲み取ること。(精神の模倣) 背臨 とは、記憶を頼りに同じようにやってみる。そしてあたかも自分のもののようにして応用すること。 という学習手段のようです。 これは運動、スポーツにおいても同じことが言えると思います。 というより、運動の習得というのはまさにこの通りです。 ひいてはビジネスの世界においても同じことが言えるようです。 一つウェブの記事を紹介します。 「 自分を捨てたとき、あなたがやるべき仕事が見えてくる…現役アニメ映画プロデューサーがジブリで学んだ仕事術 」 ここでは「3年間、俺のマネだけしてろ!」

1回目の大切さ、難しさ

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今回はタイトルがそのまま結論です。 その日1回目の運動というのは難しいです。少なくとも「最も最近行なった運動」が1日以上前なわけですから。2セット目であれば1セット目の成功体験や失敗体験を踏まえてでき、また1セット目でも2rep目(回目)であれば1rep目(回目)の良し悪しで修正もできるでしょう。でも1回目ではそれができません。 それが初めてやる(運動)であれば、「どのような負荷がかかり、自分や対象物の重心はどこで、筋肉のトーヌス(緊張)がどれぐらいなら可動域がどれぐらいで、どのタイミングで力発揮が行われるのか」ということを予め予測して運動に入ることが求められます。 それが初めてではない場合には前回の運動様式の記憶を辿り、上記と同じく「どのような負荷がかかり、自分や対象物の重心はどこで、筋肉のトーヌス(緊張)がどれぐらいなら可動域がどれぐらいで、どのタイミングで力発揮が行われるのか」といったことを思い出した上で運動に入ることが求められます。 つまりは動作の準備です。そういった感覚の準備を行うことを動作の先取りと言ったりもします。この先取りという考え方は私も恩師から教わりました。 しかし、クルト・マイネル氏や金子明友氏は、「運動」は身体によって体現される前に完了しているといった主旨のことを述べていたと記憶しています。つまり我々の目に見える、または写真やビデオに撮られる画は、物理的に現出した「知覚」であり、「運動」の結果としての形であるということです。ここまで読んでもらうと上記の「予測して運動に入る」とか「思い出した上で運動に入る」という表現が正しくなく、予想したり思い出したりすること自体が運動であるという理解になると思います。 これは大変難しい概念ですが、私もようやくその上っ面が分かるようになってきました。こういった類の話を単に「運動感覚」とか「キネステーゼ」という言葉を用いて私の薄っぺらい理解度で説明するにはあまりにおこがましいので割愛しますが、この類の話を理解できないと指導者として運動を指導するということは難しいと思います。 したがって、指導している対象人物が運動を理解しているかどうか、その動きをモノにしているかどうかを図るには1回目の動作をみるとよく分かります。うまくいっていれば巧みに運動できている、そうでなければ巧みに運動できていな

あそびの可能性

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あそびと運動に関して考えれば考えるほどスポーツ科学から遠ざかっている気がする今日この頃です。語弊を恐れずに言えば科学的にアプローチできるパフォーマンスなんて知れてるとすら思えてきます。運動の基礎としてあそびを通して様々な体験をしていなければその上に積み重なる科学的トレーニングは大きな意味を持たないと思うのです。逆に言えば子どものときの運動体験が後のパフォーマンスの伸びシロに大きく影響をするのだろうと思います。 ここでいうパフォーマンスは単にフィジカルだとかスキルだとかといった意味にとどまらず、社会的や心理的な側面も含めてのパフォーマンスです。例えば社会的にはチームワークであったり他への貢献、礼儀作法などが含まれ、心理的というのはモチベーションだったり負けず嫌いといった性格であったり、情動面における特徴の形成が含まれます。そういったことが単にスポーツからではなくあそびから得られるというのが最近の私が感じるところです。 実際にトレーニング学を紐解けばそういった社会的行動様式や情動面が運動学習プロセスとその学習結果に影響を与えると記されています。(「初歩の動作学-トレーニング学」より) 冒頭のスポーツ科学の話に戻ると、体験から得られる効果は科学的に説明がつかないことはあると思いますし、実際には科学的なアプローチが必要ないケースが多いと思います。 で、大事なのは やってみる→成功したor失敗した という経験です。 水たまりがある ↓ 跳び越える ↓ 成功したor失敗した この場合成功すればその子にとってはその水たまりを跳び越えるのに十分なパフォーマンスを持っていたことになり、失敗すれば単純にジャンプ力が足りなかったまたは跳び方が悪かった(力やコオーディネーションといったパフォーマンス前提の欠如)+己の実力を図り誤ったということが判明します。 その経験が大事で、「次は跳び越えてやろう」とか「次はやめておこう」といった子ども自身の判断力が養われます。 そこで親が「何やってるんだ!」「靴を汚すな」となってしまっては元も子もありません(得るものはありません)。当然のことながらより良い跳び方を教えたところで子どもが理解するわけもありません。子どもには理論は後回しにして、「跳び越える」というタスクを与えるだけで

あそぶことは難しい

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最近ブームの「あそび」について続きます。 先日参加した「原っぱ大学」 子どもにあそびを提供する環境が必要だと過去に記事で書きましたが、それは一筋縄ではいかないようです。そこには社会的背景が関わってくるからです。 まずは親の問題。 子どもにあそびを与えるには、まず親の心にあそびがないと難しいと思います。 (注釈は不要かもしれませんが、ここでのあそびとはゆとりのこと。) 休みがない、朝から晩まで働いている、単身赴任、今は何をするにもお金がかかる時代の中であそばせるお金がない、汚れた服の選択が億劫、、、などなど、こどもにあそびを与えない「言い訳」は挙げれば枚挙に遑がないぐらい多くあります。 でもこれは単に親だけの問題ではないですね。 社会の問題です。 でも社会の問題は自分一人ではなかなか変えられないので、一番変えることができる自分を変えるしかないのです。 もう一つ親の心のあそびに関しては放置することが難しいです。 忙しさに負けて「見守る」「任せる」といったあそびが大人になくなってきています。 時間的な制限、他の子どもとの比較などがこどもの自由を奪ってしまいます。 あそびですらあそび方を指示する(または制限する)ことも増えてきたと感じます。 スポーツを含む習い事でも同じことが見られます。 「こう走りなさい」「こう投げなさい」あたかもそこに正解があるかのように指示が飛び交います。 これに関しては語れば長くなってしまいますので別の機会に。 そしてその習い事。 最近のこどもたちのやってることを見聞きしてみると、テニス、水泳、野球、習字、英語、公文、塾、、、といった習い事の多いことに驚かされます。多様な経験と言えば聞こえがいいですが、いったいいつあそんでいるのでしょうか。前述した大人と相違ないように疲弊しているこどもたちが多く見受けられます。習い事はあくまである一つの手法を習うことになり、そこに想像力だとか自分の創意工夫は生まれづらいです。やっぱりここでもあそびに勝るものはない、と、こうなるわけです。 それと場所の問題。 今はあそぶ場所がどんどん制限されています。 ボールあそびをやってはいけない、自転車を乗ってはいけない、もっと言えば大昔にはなかったマンションが増えた結果

桶の理論をアスリート形成に当てはめる

先週久々に一つ書いてみたらポンポンとアイディアが浮かんできました。 アウトプットの大切さを早速実感しています。 私の今の業務は運動指導がメインとなっておりますが、そもそもの私のバックグラウンドはアスレティックトレーナーの勉強をしたことから始まりました。学生時代とアスレティックトレーナーとして働いていたときのことを振り返ると、ミクロな視点で身体を観ていたと感じます。今では逆転してかなりマクロな見方ができるように(ようやく)なってきました。前回の投稿「 育つ環境が大事 」もそんなところから派生したことでした。 現在ではスポーツ科学はかなりの発展を遂げ、20年前には分からなかった多くのことが明るみに出て注目されるようになりました。私が見てきた世界を辿ると古くは肩のインナーマッスルのトレーニングから始まり、コアトレーニング、筋力トレーニング、最近では呼吸、ムーブメント、栄養、筋膜リリースなどなど、多くのスペシャリストがその効果を提供してくださっています。 私自身はどの分野においても秀でた知識も経験もありませんが、どれも大事なことなのでそれらをトータルでコーディネートすることが求められているのだと思います。先日、あるアスリートとこの話題になり、「桶の理論」を思い出しました。 そう、必須アミノ酸の説明で使われるあの「桶の理論」です。 詳しい説明はアウトソースに頼ります。 http://www.kokusai-journal.net/oke.html 画像出典: http://animal-nutrition.evonik.com/product/feed-additives/en/about/healthy-nutrition/animal-nutrition/pages/default.aspx ここでの桶を構成する一枚一枚はアスリートを構成する様々な要素を表すとします。 筋力、持久力、スピード、判断力、動体視力、栄養、頭脳、テクニック、、、 どれか一つの板だけ長くても仕方がないのです。すべての要素を突き詰めてそれをコーディネートすることが大切です。 一つの要素や方法論が万能なわけではなく、様々な要素を統合することがアスリートを形成していくのだと思います。 「○○は良いアスリートになるには必要だけども