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努力できない人は努力する能力がないわけではない

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「努力も才能のうち」と言う人もいます。 私もそう思っていた一人です。(自分はこの才能が欠如していると思っていました) しかしここ1ヶ月の間にその考えが改められました。 努力できる、できない は能力ではなく、意志の強さによるのだという考えに変わりました。 成し遂げたいある事象があったとします。 これをゴールと呼んでもいいし、夢でも、目標でもよいでしょう。 ここではそれを目標と呼ぶことにします。 その目標をどれだけ成し遂げたいのか それに応じて努力度は変わってくるのだと思います。 これは目標の大小や種類を問いません。 「高級フランス料理が食べたい」でも「好きな子と付き合いたい」でも「オリンピックで金メダルを取りたい」でも同じことです。 定めた狙いに対して、実現させるまであの手この手を尽くすこと、言うなればこれを努力と呼ぶのかもしれません。そしてここで出た“あの手この手”とは戦略であり、戦術というものです。 (余談ですが、私が関わったある一流選手は自分の競技において高みを目指す行動を努力だとは思っていないというコメントを残していました。) 努力ができていないのだとしたら、それは本当に本当にどうしても成し遂げたいものではないということです。本当に成し遂げたいのであれば、他のことはさしおいてでもきっとなんでもするでしょうから。 ちなみに努力しない他の理由として、現在地の誤認または迷子(目標と今の距離が分かっていない)、自分への過信(努力しなくても実現できると思っている)、自分の過小評価(努力しても無理だと思っている)などがあります。 これを適切な方向へと修正できるとすれば、それがコーチングと呼ばれるものになるのだと思います。コーチの役割は選手の目標への熱量に応えるべく適切な戦略や戦術(あの手この手)を提案すること、もしくはそれに気づかせることだと思います。とは言っても熱量の大きさだけはコントロールできません。前からこのブログで述べているように「馬を水辺に連れて行くことはできても、飲ませることはできない」のです。 しかし、本当に難しいのは“成し遂げたい何か”を見つけることなのですが、、、。

運動を訓練するということ

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私が体力トレーニングを行う際の観点というか目的。 『適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す』 シンプルにこれだけです。 どのスポーツのどの場面でも、身体動作を伴う場合にはこれがすべてだと(現段階では)考えています。関節角度が、、、とか、体幹が、、、とかは、あくまでも前述の目的を達成するための手段(条件)です。そこばかりを気にして、手段ありきにならないように気を付けています。尚、ここで言う“力(=チカラ)”とは、筋力でも、筋出力でもなく、単純に何かに作用するためのチカラです。ドイツ語のkraftの意味合いがこれにあたるでしょうか。 ウエイトトレーニングのようなシンプルな動きでも、技術トレーニングのような複雑な動きでも、「適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す」ということを追い求めます。個人的にはウエイトトレーニングもそのためのトレーニング手段だという認識で処方していますが、特に最初の2つ(タイミングと方向)が大事です。力をつけていくのはそんなに難しくはないので、まずはその2つにフォーカスするべきでしょう。逆に言えばその2つが未熟であれば、力を増していくトレーニングは避けるべきです。 タイミング、方向、力、この3つを成し遂げる手段として先に述べたように関節角度とか、予備緊張(張力)とか、はたまた動作の先取りとか、うまくいったときの感覚とか、そういったことを取り揃えていく(条件を整えていく)ことがトレーニングであり、それらを統合(呼応)する能力がコオーディネーション能力と言われるものになろうかと思います。そしてそれを養うことが、タイトルにある通り“運動を訓練するということ”だと私は考えます。 動作ありきの動作、動作ありきのトレーニングにだけはならないよう、気をつけたいものです。自戒の念と、指導者、選手への喚起として。

子は手を借りて更に熟す

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「発達の最近接領域」の理論(レフ・ヴィゴツキー著)を読みました。 発達の最近接領域、、、難しい言葉ですね。 英語ではZone of Proximal Development。 簡単に言うと「一人ではできないが誰かの手助けによってできるようになる伸びしろ」といった感じになるでしょうか。 私はこれまでJJ・ルソー氏の消極教育に代表されるように、「子は自ら育つ」という考えで、放任こそが子どもの本当の成長に繋がると思っていました。タイトルも、これまで私の考えを記した本ブログを読まれてきた方は、違和感を感じたかもしれません。それだけに今回の「一人ではできないが誰かの手助けによってできるようになる」という観点と論理は新たな発見でした。 今思い返せば昨年ライプチヒに行った際に、帰納法と演繹法の話の中で、“演繹的帰納法”という言葉を耳にしておりました。なるほど、そういうことかと、今回の書籍の読了に伴い、理解が深まった感じがします。学習における偏差を認めた上で(偏差的学習)、先人の手助けがあるとより学習の効果が高まるということですね。当然手助けのしすぎは問題になりますが。 模倣という観点も大事で、自分より優れた何かを見ておくことは学習においてとても効果的だと思います。百聞は一見にしかずという言葉もありますが、見たらそのようにやってみようと真似をするものです。私はどのレベルにおいても全力で見本を“見せつける”ことにしています。それすらも、一つの“手助け”になり得るからです。 「未知のなにか」を見せ、体験させ、成長可能性を刺激し全うする。それにより、未到達のレベルに導く。ヴィゴツキー氏は「熟しつつある何か」を察知することが重要だと述べています。今その子が出来ることはどの程度で、どんな手助けをしたらどの様にどの程度まで熟していくのかということを見定め、適切な手助けを施す。これこそが特にジュニア期に携わる指導者の役割だと思います。 「今日子どもが協力の下で遂行できることは、明日になると独力で行なえるようになる」 そんな“明日”を子どもたちに迎えてもらいたいなと思う本日でした。

経験と教育 そして大人の役割

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アメリカの哲学者・教育思想家のジョン・デューイ氏の『経験と教育』を読みました。 2回読んだものの、解釈はとても難しかったです。ただ、私なりにシンプルにまとめると ・子どもの成長には多彩な経験が必要である ・大人の役割は経験を積むことができる環境を用意すること といったような感じです。 教育思想家として一方的な知識の享受を目的とした伝統的な教育方法に警笛を鳴らしていた部分に関しては大いに共感しました。でもより感銘を受けたのは“経験の連続性”という原理です。 “先行する経験は後続する経験の質に影響を与えざるを得ない”という考え方はしごく真っ当であり、当たり前のようですが、とても重要な概念を孕んでいると感じました。 以前より私がこのブログで主張してる運動財に関しても同じことが言えると思います。たくさん遊んで、たくさん成功したり失敗したりして運動の経験を積んでいくと、その経験がやがて地となり肉となり運動感覚(コツやカンを含む)が養われていきます。 「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」というあの名言にも通ずるものがありますね。心理面や人間形成においても同じ原理が適用されるのだと思います。 しかし、ここで私が言いたいことは何も運動やスポーツに限ったことではありません。 生きるチカラを養っていくのに、やはり経験というのは何にも替え難いものになるのだということです。 冒頭のデューイ氏の別の著書「民主主義と教育」には以下の様に記されています。 ・大人が子どもに文化を伝達し、子どもを社会の一員とする ・子どもに新しい文化を創造する能力を身につけさせる(成長する能力) ・変動する環境に適応できる力を教育によって育てる なるほどと首肯かざるを得ないほど見事に正鵠を射ていると感じます。 同著にはまた以下の様にあります。 「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の進路を方向付ける能力を高めるように経験を改造あるいは再組織することである」 これがいわゆる大人の役割なのでしょう。教育者や指導者だけでなく、親も含まれ、ひいては子どもを持たずともすべての人間が後世の種に何かを伝える際にはこの観点が必要になろうかと思います。冒頭の私の解釈に戻りますが、子どもが多彩な経験を積

遊びは自己実現

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自分たちで遊びを実行できない場面をよく目にします。 「ドッヂボールがしたい。」 しかしなかなか実現できません。大人なら何とかしてくれるだろう、、、と大抵は大人を頼って懇願してきます。 ドッヂボールをやるにはいろいろなものが必要です。仲間、ボール、コート、ルール、、、これらをまずは用意しなければなりません。 仲間を集うのにはコミュニケーション力や交渉力がいるし、どこにあるどんなボールを使うのか、コートはどれぐらいの大きさでどうやって仕切りを設けるのか、ルールをどのように設定するか、、、いろいろなことを決めて実行していかなくてはなりません。そしてその遊びを知らない人、興味ない人を惹きつけるプレゼン力。 この時点で、何かしら欠如していると「もうドッヂボールやらなくてもいいや」となってしまいます。傍から見ている私は、ドッジボールがやりたい情熱はそんなものか、、、といった感想を持つことになります。その結果、本当はやりたくない他者の遊びに付き合うことになります。でも自分がやりたいドッヂボールを実現できなかったのだから仕方ないのです。 遊びとは自己実現なり。 自分がやりたいと思ったことを実行するにはそれなりのエネルギーが必要です。しかし人生というのはその連続です。“遊び”は子どもの欲求ランキングでは1位、2位でしょう。まずは遊びの実現によって、その欲求を満たすという訓練と経験を積んでいってもらえたらいいなと思います。それが生きるチカラを養うことにつながると思うのです。

育成は十人十色

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ちょっと育成について考える機会があったので、それについて書きます。 同じ運動は二度と起こらない という意味合いのことはこれまで何度も述べていますが、育成方法に関しても同じです。巷には様々な育成方法や子育て論などの情報がたくさん見られるようになりました。しかし料理と違って生身の人間ですから、レシピ通りにやっても同じようにはいかないというのは周知の事実です。(おそらくはプロの料理人してみたら同じ味は二度と作れないと言うでしょう) にも関わらずあたかも一つの成功例が唯一絶対的な正解で、普遍的な理論のように流布してしまっています。そして子どもの運動指導に関わる人間、または親がそれを踏襲して実践しています。“2人として同じ人間は存在しない”のにです。 これは私の推測ですが、一卵性双生児に対してまったく同じアプローチで育成をしても、同じパフォーマンスを持つ選手にはならないでしょう。とは言っても完全に個別化して育成プログラムを組むなどというのは現実的ではありません。 ではどうするか。 集団の年齢、特徴、能力などを把握したうえで、最大公約数的にアプローチするというのが、出来得る中ではベターな方法と言えるでしょう。学校教育などがこれに当たるでしょうか。個を重視するといっても、どうしたって子どもを個で育てることはできません。 それぞれの年代において大切なことを、適切な順番で適切な量をこなしていけばそれなりには育つと思います。その中で必要に応じて個の対応をすればいい。そういった判断ができる大人が増えて欲しいものです。冒頭の料理の例で言えば、肉じゃがを作るにはまず野菜を切ること、肉を炒めること、醤油や味醂を使って味付けをすること、そういう行程の理解がまず先決です。正確でなくてもいいのです。そういうことをある程度の振れ幅の中で出来ていれば、そんなに変な味にはならないと思います。その上で個の対応、つまり好みに応じた味付けが意味を成すのです。塩気が足らなければ足せばいいし、火が通ってなかったらもう少し火にかければいい。育成と料理のどちらのケースにしても、大事なのはどういう人間、どういう味にしたいかということを考え、必要なことを行なっていくということ。 思い通りにいかない、理論通りに事は運ばない、そういうことを認識した上で、あまり細かいことは気にせずに、まずはざっくり適

教えず、自己を実現する

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天外伺朗氏の『「生きる力」の強い子を育てる』という著書を読みました。 当面の間、私自身のライフワークとなりそうなテーマです。 その本の中で、サドベリー・バレー・スクールの紹介がありました。アメリカのマサチューセッツ州で誕生した学校で、子どもを信頼し、絶対的な自由と責任を与え、自己を実現する力を養うことで知られます。スクール(=学校)とは言ってもカリキュラムは存在せず、科目や時間などの制限も全くなく、やりたいことは自分で決めるというスタンスのようです。知りたいことがあれば自分で授業を企画し、教師に請うということです。例えば、本を読みたいから文字や文法を教えてほしいとか、車を作りたいから物理を教えて欲しいとかいった具合でしょうか。 教えることもなければ、評価されることもない。すべては内発的動機付けに基づく。 究極の消極教育ですね。 これをスポーツという分野で考えてみるとどうでしょう。 スポーツの根源の遊戯から始まり、勝負欲へとつながる。その中でより良いパフォーマンスを出したいと思うようになる。まずは上手く出来ている年上をお手本にする。それでもできないことがあると自覚する。そこで初めて先人の助けを乞う。 ホームランを打ちたいのですが、どうしたらいいですか? サーブをもっと速く打つにはどうしたらいいですか? 相撲でA君に勝つにはどうしたらいいですか? バック宙をしたいのですが、何をやればいいですか? もちろん、それまでにも試行錯誤は繰り返されているでしょうが、どこかでこのような壁にぶつかるでしょう。自分一人ではにっちもさっちもいかなくなったときに初めて教えを乞う。自分が実現したいことを手伝ってもらうわけです。 教えないスポーツクラブ。 サドベリー・スポーツクラブ?そんなようなものが存在しても面白そうだなと、冒頭の著書を読みながら思いを馳せておりました。 自己実現、スポーツに限らず、これは人生のどの場面でも必要な力になることでしょう。  

子どもは小さな大人ではない

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“子どもは小さな大人ではない“ 何度かこのブログにも登場しているJ・J・ルソーの言葉です。 この言葉を思い浮かべる機会が増えています。 先日、少年野球の野球少年たちが守備用手袋を着用していると聞きました。なぜだろう、、、。本当に必要なのでしょうか。(打撃用だって私は高校卒業まで着けなかった)。手の保護と言っても小学生が投げる球なんて100km/hそこそこで、しかも軟式ボールです。グローブの中で滑ると言ってもそんな繊細な感覚でグローブを扱っているのでしょうか。 おそらくは 「プロ野球選手がつけているから」 というのが主な理由でしょう。 これと似た現象がジュニアのスポーツでしばしば見られます。 その一つがフィジカルトレーニングです。 大人がやるようなトレーニングやウォーミングアップを子どもに処方している指導者は少なくありません。先日職場で行われた全国大会でもその光景を目の当たりにしました。それがその子どもにとって、その年代に、その時期に必要なことなのかどうかというのは今一度考えてもらいたいと思います。 フィジカルだけでなく、同じことはtechnique、tactics、mentalの各要素においても見られます。例えばテクニックに関して言えば、プロ野球選手のフォームをスローで見せながら真似をする。例えば戦術に関して、進塁打を強制する。例えばメンタルに関して、プロと同じようなストイックさを求める。これらはほんの一例で、氷山の一角に過ぎないことはジュニアに携わっている指導者であれば心当たりがあることだと思います。 「大人がやっているから」という理由でそれを子どもに適用してしまうのはあまりに理不尽であり危険も孕んでいると思います。もっと言えば“科学的に証明された”という謳い文句も多くは大人においてそういう結果だったということが多く、それをそのまま子どもに適用はできません。 話しは戻って、フィジカルトレーニングの子どもへの適用に関しては、フィジカルトレーニング偏重の風潮も手伝っていると思います。フィジカルトレーニングというものが存在しなかった時代と比べて、フィジカルトレーニングの重要性が(誤った形で)認識され、パフォーマンス向上にはフィジカルトレーニングが必要だという固定概念が広まりました。ある程度パフォーマンス構造が出来上がった選手にはもちろ

モノマネと守破離

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最近の子どもはモノマネができるだろうか。 私が子どもの時はモノマネをよくした記憶があります。野茂、イチロー、大野豊、山本昌、岡崎、大豊、亀山、オマリー、ブラックス、、、他にもカズ、ラモス、ジーコ、木村和司、シジマール、などなど(敬称略)。 今はモノマネをする子どもをあまり見かけません。一番の要因はテレビ放映が少なくなったことでしょう。野球の視聴率低下に歯止めがかからず、ついにはテレビでほとんど放映しなくなりました。1980年代、90年代はおそらく親が見ていた野球がつまらないとテレビの取り合いで親子喧嘩が絶えなかった時代であったと思います。でもつまらないながらもそこに野球はありました。画面上にありました。音も部屋の中にありました。lookでなくてもseeする機会はありました。listenでなくてもhearする機会はありました。それが今はなくなってしまいました。 以前、『 真似るということ 』という記事を書き、そこで真似ることの大切さに少し触れました。真似をするには、まず観察しなければできません。モノマネは観察した映像と自分の動きが一致させられるかが問われます。自分の身体をあたかも外側から見ているかのように感じ取り、イメージ通りに動けているかどうか、こういった能力になります。 このブログに再三登場している金子明友先生の言葉を借りれば、「今ここ」を今、今、今で感じながら「自分はこう動く」を実現するということです。 よくあるパターンとして、自分の動きを映像で撮りあとから見てみると、イメージしていたものと全く違うものが映っているということは往々にしてあります。それは自己フィードバック能力の欠如によります。動きの修正、スランプからの脱出にも必要な能力ですね。 野球はともかく、今私が関わっているテニスにおいては意識的に見ようとしなければ見る機会はほぼありません。したがってモノマネする子どももほとんどいません。 上のレベルの人物になりきる。 守破離の観点から言ってもこれはとても大切だと思うのです。

子どもにとってのスポーツとは何か

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前回はスポーツって何なの?というところの一部に触れました。 今回はそこから派生して子どもにとってスポーツって何なの?という話。 記事を 3 つほど紹介します。いずれもジュニア期のスポーツについて取り上げています。 『 なぜ日本は、子どもを練習漬けにしてしまうのか? 燃え尽きる高校生が出る理由 』 『 筒香嘉智が勇気を振り絞った 12 分間スピーチ 球界の現状に違和感と危機感 』 『 スポーツを頑張る我が子を応援する親御さんに気づいてほしいこと 』 最近はこの手の情報がとても増えてきたように思います。 ジュニアのスポーツって何なのでしょう? 体育ではありません。スポーツの話です。 まず、前提として、勝つ必要はありますか?という問い。 読者の皆さんはどう考えますか? 難しいですね。スポーツですから、勝ち負けはあるでしょう。でもそれはコインを投げたら表か裏が出るようなもので、スポーツをやったら結果として勝ちか負けがあるということです。 個人的には私の負けず嫌いな性格上、フィールドに立ったら相手が誰だろうと負けたくないですし、当然勝ちに行きます。ですから、白黒つけるのが悪いと言いたいわけではないのです。 白黒自体に白黒以上の意味合いはない ということです。 それを第三者が勝ち負け以外の何かのために勝ちを求めてしまう。名誉なのか、お金なのか、仕事だからなのか、他にはなんでしょうね。ここで言う第三者は、たいていの場合、親や指導者といった大人です。勝ちを求めるが故に練習する。休まず、練習しつづける。いつしかそれは やらなきゃいけないもの となる。ここまでくると、 そのスポーツをやる理由はもはや“やりたいから”ではありません。 楽しければ勝手にやるでしょうに。練習終わっても、明日も、明後日も。それはやりたいからやる遊びと並列のはず。そう、スポーツは遊びです。 負けると悔しいから次は勝てるように工夫します。どうすれば悔しい思いをしなくていいか考えます。考えたものをやってみて、やってみた結果、勝つか負けるかやってみます。勝った先に何があるかなんて考えません。それはドミニカの空き地での野球や、ブラジルの路地でのサッカーそのものです。 甲子園に出る意味は何なのでしょう。全国大会を目指す意味は

アスリートの仕事は還元すること

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Number Webの記事 大谷翔平を育てたのは日本ハムだけ?高校や育成クラブの貢献に報酬を。 この記事を読んで少しばかりの 違和感とちょっとした不安を覚えました。 同じ論調で言えば契約金をもらったのは大谷選手だけ?譲渡金をもらったのはファイターズだけ?ノーベル賞の賞金は?芥川賞の賞金は?発光ダイオードの特許使用料は?という話になってしまうのですが、そんな議論をここでするつもりはありません。 一番腑に落ちない部分としてはスポーツとは何?というところ。 繰り返します。スポーツって何なのでしょう? ざっと思い浮かぶものを並べてみるといろいろあります。 娯楽、戦争、遊戯、趣味、教育、ビジネスツール、自己実現ツール、、、 具体的な定義は文部科学省の「 スポーツ振興基本計画 」内の文面に譲りますが、本来は やりたいからやるもの というのが基本線のような気がします。 スポーツはやる他に、観る、応援するという関わり方もありますが、例えば自分の子どもの勝ち負けに一喜一憂する親、選手の活躍に一喜一憂する指導者、贔屓のチームの勝ち負けに一喜一憂するファン、そこに利害はなく、無償の愛であるのが本来の姿だと思います。 仮に記事の文面のような形を実現したとすると、そういう一攫千金ビジネスへと発展しかねない恐れがあります。どうしたってそう考える輩は出てきます。百歩譲って民間のクラブチーム(大谷選手の例で言えば中学時代のリトルシニア)がそれを狙ったビジネスモデルを採用していたとしても、部活動としてはまだその領域には踏み出せないのではないでしょうか(一時期スカウトを介して問題になったことがありましたね)。 ちなみに、経済の一つの歯車として機能するのであればスポーツをビジネスツールにすることに関しては異論はありません。それは周りが勝手にやればいいことです。その上で、、、 これは個人的な意見ですが、お世話になったチームへ還元するとしたら、それは先のチームではなく、そのアスリート本人なのではないでしょうか。「私を育てていただいたおかげでここまでこれました。ありがとうございます」と。お金ではなくても、何らかの形で感謝を伝え、または感動を与え、勇気を与え、希望を与え、無償の愛に応える。それこそがスポーツを通して培った人格の最たるものの

正解を教えるリスク

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『 人間脳を育てる 』(著 灰谷孝・花風社)を読みました。 発達障害というものについて、この本により少しだけ理解ができたような気がします(個人的には障害だと思っていない)。本の一部を引用させていただくと、 1.基礎工事がうまく進まず、家の建つのが極端に遅い 2.家は建ったが、工事のヌケ・漏れが多い ということのようです。 そしてこの2パターンへのアプローチは当然のことながら異なるそうです。 なるほど分かりやすいです。 発達の過程をシャンパンタワーに例えたり、回数券に例えている部分も大変興味深かったですし、やはりそれにより理解は深まりました。 シャンパンタワーは一番上のグラスが満たされれば次の段のグラスに注がれ、その段のグラスが満たされればさらにその下の段のグラスに注がれていきます。そして回数券。ある段階の回数券を使い切って初めて次の段階の回数券が使えるという例え。 そこで問題になるのは、その段階を飛ばしてしまう場合です。 厳密に言えば大人によって飛ばすことを余儀なくされてしまう場合です。 前述の例えで言うと、 仮に途中の段のグラスから注がれた場合、それよりも上の段のグラスにはどう頑張っても注がれないということ。また、使い切らずに次の段階の回数券を使うと、残った回数券が後々ヌケとなって問題になるということ。 タイトルにある「正解を教えるリスク」がここにあります。 右手でボールを投げるのに右足を出すことは発達の段階の一つのようです。それなのに大人が“違う!”と言って左足を投げる方法を教えてしまう。右足を出して投げるという回数券を使わずに左足を出して投げるという回数券を使い始めてしまう。あーでもない、こーでもないと、あれこれ考えるというプロセスは飛ばされます。←これが一番問題。こういった例はボール投げだけにとどまらず、語学でも、数学でも、礼儀作法でも、各分野で起こります。 子どもというのは、各段階やりきって満足がいったら自然と次の段階に移るそうです。さらにはその段階段階において適当な遊びを子どもは勝手に選択するそうです。それを邪魔するのが大人だということ。選択させ、満足させないから問題が起こる。 いやはや勉強になりました。 大事なことは子どもの自然な発達を邪魔しないこと。 気の向くままに。 やっぱり適当