指導者の存在
同僚が今朝見つけたクワガタを私は誰にも見られないようにいつも子どもたちが昆虫を求めて集う木に放した―― ――午後に子どもたちが見つけて獲れるといいなという願いをこめて 私は指導者の役割というのはこのような感じだと思っています。子どもたちがある種の成功体験を得たとして、その裏には気づかれない手助けがあります。しかし子どもたちはそれを自らが成したものとします。指導者の存在は表に出なくていいのです。指導者とはそういうものです。 ちなみに成功体験を得られなかったとしても、気づかれぬ手助けに対して見返りは求めません。無駄だったとも思いません。指導者とはそういうものです。 これは大村はま先生の著書『教えるということ』に出てくる「仏様の指」の話にも通ずるものがあります。 「仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった。 男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ。もしその仏様のお力によってその車がひき抜けたことを男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、何分の一かに減っただろうと思いました。」 本人の主体的な成長の裏にある気づかれない程度の存在。そういう大人で私はありたいと思います。