投稿

8月, 2017の投稿を表示しています

子どもにフィジカルトレーニングは要らない

スポーツ界においてフィジカル、フィジカルって叫ばれて久しい。 今回は、でもそれって本当に必要? って話。 特に子どもに対して。 大人のステージで成熟したアスリートにとってフィジカルトレーニングが必要なのは分かります。計測競技の100分の1秒のため、採点競技の1点のため、球技の5cmのコントロールのため、コンタクトスポーツで相手を打ち負かすため、金箔を一枚一枚重ねて貼っていくようにパフォーマンスに上塗りを重ねていく作業。これは分かるし、私にもそれを行う自信のようなものは少しはあります。 でも未成熟の子どもにも同じように当てはめようとしてないでしょうか。そもそも子どもは単純に言語が未熟だし、ましてや感覚を言語化して伝えられるわけがないのです。腕の振り方、脚の挙げ方、重心の扱い方、説明して理解するわけがないのです。(当然、実行できない) 誰が言い出したか、体幹が大切だの、インナーマッスルが大切だの、可動域が大切だの、呼吸が大切だの、股関節が大切だの、、、それが子どもにとって大切でないとは言いませんが、スポーツ科学の発展により“後付け”で分かったことを、それも大人にとってはたぶん(大人にとってだって“たぶん”の域を抜けない)大切なんじゃないかなっていうことを、それは当然子どもにだって大切だろうって言ってしまう。そう言っている人に悪気はないのだろうけど、そんなのは大人のまやかしでしかない。 日本人が日本人の子どもに言葉を教えるのに、『あ』の発音の仕方を教えますか? “熱い”と感じた時には『熱い!』って言うんだよと教えますか?少なくとも私は教わった記憶はないし、教えることができるとも思いません。そんなのは見聞きしたり、概念的に勝手に覚えていくものだと思います。“apple”の最初の音を『エの口(くち)でアっていう音を出す』とか『アとエの中間の音を出す』とか言うのは言語理解が進んだ大人になってからの話。つまりそれは“感覚的に学習する時期を逸した”からそうするしかないのです。 身体運動も同じ。適当に遊ばせていればいいはず。ブランコだって滑り台だって誰もその遊び方は教育しないのでは?スポーツだって結局は遊びだからブランコとか滑り台と同じで教育はいらないのです。速く走るのに腕の振り方を教えなくたって“速く走ろうと思うこと”を誘発したり、単純に速く走っ

自分がコントロールできることに集中する

今回の記事は表題が結論です。 パフォーマンスを出すためにいろいろなメンタルトレーニングがあるとは思いますが、結局はこれに尽きると思うのです。競技をやっているといろいろな環境要因が出てきます。 組み合わせ 天候(雨、風、気温) 試合時間 試合会場 試合登録メンバー(チームスポーツの場合試合に出られるかどうか) これらのうち、自分でコントロールできることは何でしょう?この中にはありません。 その時、その状況で出来る最高の準備をする。これ以外にできることはないのです。 イチロー選手の有名な言葉にも 「準備とは言い訳や後悔する要素を排除すること」 とあります。 何か集中力に欠ける人というのは自分がコントロールできないことに気を揉みすぎていると思います。もしくはそこに逃げ口を用意しているのではないでしょうか。 今、自分にできること。 それを実行する。 それだけでパフォーマンスというのは変わってくると思うのです。

扉との競争

『扉はどんどん閉まっていくんだ。その扉が閉まり切る前に向こう側へ行かなければならない』 ドミニカのウインターリーグに行った際にとある選手が言っていた言葉です。ここで言う“向こう側”とはメジャーリーグを指します。ドラフトされた時点から(もしかしたらそのもっと前から)扉は閉まっていくのです。 扉は待ってはくれない ゆっくりにもなってはくれない 一定の速さで閉まり続けている 問題は自分が速く進むか否か 足踏みしている暇はない 足を止めている間にも扉は閉まり続けている 足を前に進めない限りは扉の向こうへはいけない 時間はない やるべきことはなにか それを実行できるか これは同選手は言っていなかったことですが、厳密に言えばその扉へ向かうのは一人ではありません。通勤ラッシュ時の都心の電車のドアのように皆がその扉を目指します。その状況を想像できるかできないかで日々の取り組みは変わります。アスリートというのは常々大変な職業だとつくづく思います。 とは言え、アスリートに言えることは一般職にも言えるはずです。一つのprofessionを全うするprofessionalならば。 今回も自戒の念をこめて。