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スポーツもR&D

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前回の記事では遊びとは「R&D」であるということを書きました。今回はスポーツというものについて考えてみます。 考えれば考えるほどスポーツも結局のところR&Dであることがよく分かります。研究と開発。しいて言えばそれの披露の場としての試し合いがあることが現代スポーツと遊びの違いでしょうか。 以下、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」(1938)からの引用です。 「遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。」 冒頭の「遊び」を「スポーツ」におきかえても意味合いが通じるあたり、スポーツは遊びとかなり相似状態にあると思います。実際の話、ホイジンガの遊びは「戦い」と「演技」に通じています。 スポーツは自由な行為であり、一定のルール(秩序)に基づいて行われ、秘密にR&D(これを練習とか特訓と呼ぶこともできるかもしれない)したものと言えるのではないでしょうか。 以前にもストリートスポーツについて書いたことがありましたが( アスリートが育つ環境 )、ストリートスポーツはR&Dの典型だと思うのです。別の場所で泥団子は究極のR&Dだと書きましたが、ストリートスポーツもそれに似たものがあると思っています。昨日より今日、今日より明日、より良い泥団子(技、戦術)を磨いていこうというしごく純粋な動機。これこそが物事を極めていく際にとっても大事なことだと思います。私が関わってきた中ではそうやって研究と開発を楽しんでいた(いる)選手が今サンディエゴとアナハイムで驚くほど高いパフォーマンスを出しています。 スポーツが習い事化もしくは職業化するとこの本質性は薄れ、「やらなければいけないこと」や「結果を出さなければいけないこと」になってしまい、それはそれはつまらないものになってしまいます。 少なくともスポーツに親しむ子どもたちにはこのスポーツ=

遊びと学び

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「遊び」の意味を、いわゆる「R&D (研究・開発)」と言えるものだといったら、たぶん分かりやすいだろう。「R&D」は「ポスト産業時代」において名誉ある地位を獲得してきた言葉だが、それは子どもたちの「遊び」が果たしている役割をほとんど完璧に書き出すものである。 最近読んだ「自由な学びとは―サドベリーの教育哲学」(Daniel Greenberg 2010)の一説です。 サドベリー・バレー・スクールについては前から興味を持っていて、ルソーの教育哲学を著した「エミール」を地で行くものなのかなと想いを馳せており、私がライフプランにしようと考えている教育の筆頭事例です。とはいえあまり深く踏み込んでいなかったのですが、最近になり再び自由意志、自主性、没頭、実行力といったことを学ぶ過程でこの本を手にして読んでみたら驚きの連続でした。 まずもって前述の著書は30年以上も前に書かれており、もっと言えば同スクールは1968年が設立年なので50年以上も前に「ポスト産業時代」ということを前提にした教育哲学に辿り着き、それを実行している点に驚きます。そして50年余りという歴史がその確信に近かった仮説を実証してきています。 自由な学びをというコンセプトでありながら“学校”と名付けたこともずっと疑問に思っていましたが、そもそも私の中の“学校”の概念がずれていることにも気づかされました。グリーンバーグ氏の端からこういう学びができる場所こそが“学校”なのだという主張もこの本を読んで腑に落ちました。 著書では社会情勢や人間の本質的な部分にも触れており、自由な学びの背景にここまでの根拠、信念、情熱、そしてなにより知識を持って成り立っているということには感動すら覚えました。 遊びとは誰からも強制されることもなく、誰からも評価されるものでもなく、ただやりたいからやっているだけであって、それ自体が目的であり(いや、目的ですらないのかもしれないが)、自分が興味を持ったことに対して追及していくものであるとは前から考えを及ぼしてはいましたが、「研究と開発」とはまさに言い得て妙。子どもたちの遊びを毎日目の当たりにする中でやはり行きつく先は“好きこそものの上手なれ”。ノーベル賞受賞者がこぞってそう口にしていることからも実証済みと言えるのではないでしょうか。 情報や知識が与えられることが当たり前になり、こ