遊びと学び

「遊び」の意味を、いわゆる「R&D (研究・開発)」と言えるものだといったら、たぶん分かりやすいだろう。「R&D」は「ポスト産業時代」において名誉ある地位を獲得してきた言葉だが、それは子どもたちの「遊び」が果たしている役割をほとんど完璧に書き出すものである。

最近読んだ「自由な学びとは―サドベリーの教育哲学」(Daniel Greenberg 2010)の一説です。

サドベリー・バレー・スクールについては前から興味を持っていて、ルソーの教育哲学を著した「エミール」を地で行くものなのかなと想いを馳せており、私がライフプランにしようと考えている教育の筆頭事例です。とはいえあまり深く踏み込んでいなかったのですが、最近になり再び自由意志、自主性、没頭、実行力といったことを学ぶ過程でこの本を手にして読んでみたら驚きの連続でした。

まずもって前述の著書は30年以上も前に書かれており、もっと言えば同スクールは1968年が設立年なので50年以上も前に「ポスト産業時代」ということを前提にした教育哲学に辿り着き、それを実行している点に驚きます。そして50年余りという歴史がその確信に近かった仮説を実証してきています。

自由な学びをというコンセプトでありながら“学校”と名付けたこともずっと疑問に思っていましたが、そもそも私の中の“学校”の概念がずれていることにも気づかされました。グリーンバーグ氏の端からこういう学びができる場所こそが“学校”なのだという主張もこの本を読んで腑に落ちました。

著書では社会情勢や人間の本質的な部分にも触れており、自由な学びの背景にここまでの根拠、信念、情熱、そしてなにより知識を持って成り立っているということには感動すら覚えました。

遊びとは誰からも強制されることもなく、誰からも評価されるものでもなく、ただやりたいからやっているだけであって、それ自体が目的であり(いや、目的ですらないのかもしれないが)、自分が興味を持ったことに対して追及していくものであるとは前から考えを及ぼしてはいましたが、「研究と開発」とはまさに言い得て妙。子どもたちの遊びを毎日目の当たりにする中でやはり行きつく先は“好きこそものの上手なれ”。ノーベル賞受賞者がこぞってそう口にしていることからも実証済みと言えるのではないでしょうか。

情報や知識が与えられることが当たり前になり、こんなにも何かに興味を持つことすら難しい時代なのかと危惧することの多い昨今ではありますが、自由意志によって得られる学び、得られる成長こそが生涯にわたって活き活きと流れる血となって生きがいになっていくものなのだろうと再確認。

遊び・学び・自由の本質を深く考えさせられ、改めてホイジンガとルソー、ペスタロッチにも触れてみたくなりました。

備忘録として。



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