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教えず、自己を実現する

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天外伺朗氏の『「生きる力」の強い子を育てる』という著書を読みました。 当面の間、私自身のライフワークとなりそうなテーマです。 その本の中で、サドベリー・バレー・スクールの紹介がありました。アメリカのマサチューセッツ州で誕生した学校で、子どもを信頼し、絶対的な自由と責任を与え、自己を実現する力を養うことで知られます。スクール(=学校)とは言ってもカリキュラムは存在せず、科目や時間などの制限も全くなく、やりたいことは自分で決めるというスタンスのようです。知りたいことがあれば自分で授業を企画し、教師に請うということです。例えば、本を読みたいから文字や文法を教えてほしいとか、車を作りたいから物理を教えて欲しいとかいった具合でしょうか。 教えることもなければ、評価されることもない。すべては内発的動機付けに基づく。 究極の消極教育ですね。 これをスポーツという分野で考えてみるとどうでしょう。 スポーツの根源の遊戯から始まり、勝負欲へとつながる。その中でより良いパフォーマンスを出したいと思うようになる。まずは上手く出来ている年上をお手本にする。それでもできないことがあると自覚する。そこで初めて先人の助けを乞う。 ホームランを打ちたいのですが、どうしたらいいですか? サーブをもっと速く打つにはどうしたらいいですか? 相撲でA君に勝つにはどうしたらいいですか? バック宙をしたいのですが、何をやればいいですか? もちろん、それまでにも試行錯誤は繰り返されているでしょうが、どこかでこのような壁にぶつかるでしょう。自分一人ではにっちもさっちもいかなくなったときに初めて教えを乞う。自分が実現したいことを手伝ってもらうわけです。 教えないスポーツクラブ。 サドベリー・スポーツクラブ?そんなようなものが存在しても面白そうだなと、冒頭の著書を読みながら思いを馳せておりました。 自己実現、スポーツに限らず、これは人生のどの場面でも必要な力になることでしょう。  

子どもは小さな大人ではない

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“子どもは小さな大人ではない“ 何度かこのブログにも登場しているJ・J・ルソーの言葉です。 この言葉を思い浮かべる機会が増えています。 先日、少年野球の野球少年たちが守備用手袋を着用していると聞きました。なぜだろう、、、。本当に必要なのでしょうか。(打撃用だって私は高校卒業まで着けなかった)。手の保護と言っても小学生が投げる球なんて100km/hそこそこで、しかも軟式ボールです。グローブの中で滑ると言ってもそんな繊細な感覚でグローブを扱っているのでしょうか。 おそらくは 「プロ野球選手がつけているから」 というのが主な理由でしょう。 これと似た現象がジュニアのスポーツでしばしば見られます。 その一つがフィジカルトレーニングです。 大人がやるようなトレーニングやウォーミングアップを子どもに処方している指導者は少なくありません。先日職場で行われた全国大会でもその光景を目の当たりにしました。それがその子どもにとって、その年代に、その時期に必要なことなのかどうかというのは今一度考えてもらいたいと思います。 フィジカルだけでなく、同じことはtechnique、tactics、mentalの各要素においても見られます。例えばテクニックに関して言えば、プロ野球選手のフォームをスローで見せながら真似をする。例えば戦術に関して、進塁打を強制する。例えばメンタルに関して、プロと同じようなストイックさを求める。これらはほんの一例で、氷山の一角に過ぎないことはジュニアに携わっている指導者であれば心当たりがあることだと思います。 「大人がやっているから」という理由でそれを子どもに適用してしまうのはあまりに理不尽であり危険も孕んでいると思います。もっと言えば“科学的に証明された”という謳い文句も多くは大人においてそういう結果だったということが多く、それをそのまま子どもに適用はできません。 話しは戻って、フィジカルトレーニングの子どもへの適用に関しては、フィジカルトレーニング偏重の風潮も手伝っていると思います。フィジカルトレーニングというものが存在しなかった時代と比べて、フィジカルトレーニングの重要性が(誤った形で)認識され、パフォーマンス向上にはフィジカルトレーニングが必要だという固定概念が広まりました。ある程度パフォーマンス構造が出来上がった選手にはもちろ