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アスリートが育つ環境

恵まれない環境が真のアスリートを生む という自論について。 前回の没頭の話に通ずるところも多いです。( 競技動機としては没頭が最強かもしれない ) 活躍した(している)スポーツ選手にはスラム街など恵まれない環境でその“競技に類似した遊び”に没頭していたというケースが多いといいます。 ブラジルのサッカーなどはその典型かもしれません。 スマホもインターネットもおもちゃも何もない。サッカーしかないという状況。しかもあるのは何の皮で何年前に作られたもはや丸くないボール。ピッチは落書きだらけの壁と瓦礫に囲まれたストリート。スパイクは無く素足で当然地面は平らではない。 また、私が以前に行ったドミニカでは公園で“バットのような長いもの”で“ボールのような丸いもの”を打っている光景を目にしました。当然、地面はデコボコ、素足、格好は裸かボロボロの服です。少年たちは誰よりも早くその丸いものを投げ、誰よりも遠くにその棒で打ち返そうとする。それは“野球っぽいあそび”でした。 それでも来る日も来る日もそのあそびに夢中になり没頭する。 今日も明日も明後日も。飽きることなくのめり込む。 はっきり言って一万時間なんてあっという間です。 誰よりも上手くなりたい。そんな思いが知らずのうちに備わっています。 そういう状況が“勝手に”真の身体能力、コオーディネーション能力、身のこなし、巧みさ、創造力、発想力、チームワーク、執念を生むのだと思います。もっと言えば雨も降るでしょう。昨日とは地形も違うかもしれません。相手だって飛び入り参加で初めて一緒にあそぶ子もいます。そういった時には対応力、課題解決能力が養われます。そして言い訳はそういったあそびからは聞こえてこないでしょう。 しかも治安の決して良くない中、向かうエネルギーがあそびというスポーツであれば健全なエネルギーの使い方となるでしょう。その競技がなかったら真っ当な人生は送れなかったという声も多くあります。さらには経済的にも自分が頑張ることで家族がいい暮らしができるという想い。逆に言えば飢え死にするかもしれない危機感。戦争の中で育った選手はスポーツで平和を、元気を、感動を届けたいと責任感と使命感を持つかもしれません。没頭とは種類が違いますが、そういった気概も高みを目指すきっかけではあると思います。またアスリート

競技動機としては没頭が最強かもしれない

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少し前に3週連続してちょっとミクロな視点で「型」について書きました。しかし実際のところ、(自分の職業を卑下する言い方になりますが)そういった要素が運動選手としての成功に結びつく貢献度はそう高くないと思っています。(何を成功と呼ぶかの定義はここでは読者の皆様にお任せします) つまり、大胆な言い方をすればフィジカルトレーニングや運動学をいくら突き詰めていっても“たかが知れている”と思います。運動能力を高めるには間違いなくそういったことは必要になるのですが、マクロな視点で見ればかなり断片的であり局所的な要素に過ぎません。 では、何が必要なのかと考えた時に、根底にあるものは何でしょう。この点については以前「 桶の理論をアスリート形成に当てはめる 」で書きました。要は全ての要素においてまんべんなく隙をなくしていく以外にないということです。それを成し遂げるために必要なことを考えた時に、 今のところ私が考えるのは2つで、一つは高みを目指したいという強烈な“欲”か、もう一つは頑張らざるを得ない“切迫状態”のどちらかだと考えます。 欲に関してはもうそのままですから述べる必要はないでしょう。お金、名誉、自己満足、目的は何であれ、ただ単に欲求するということです。 もう一つの切迫状態は日本ではあまり馴染みがないかもしれません。その競技が経済的に裕福になる唯一の手段である場合などが一つの例です。それで成功しなければ家族が食べていけないだとか、目の前の試合に勝たなければ向こう3ヶ月自分の活動資金がないだとか、そういう状況は途上国のアスリートにおいては珍しくありません。ハングリー精神という言葉はあまり好きではないですし、その言葉一つで片付けたくはないですが、分かりやすく言えばそういうことです。 こうして考えてみると好きなことに対する欲を持てる前者、そもそも欲を持てるという現実は経済的に余裕のある国、または個人の特権と言えるかもしれません。欲を以て勝負する選手は切羽詰まった選手の競技動機を上回る欲を持っていなければなりません。ハングリーの例えで言えば、3日に1度ありつけるかどうかの飯を目の前にした時、その人の動機を上回る食への欲求を持っていない限りは勝負は明白です。私個人の意見では海外で日本人が通用しないのはこの点において差があると感じることがよくあります。

型からはみ出すために型がある

というわけで前回と前々回の話を関連付けてみます。 型を持つのが大事だと言ったり、型からはみ出すのが大事だといったり、、、 自分でもうまく説明できるか分かりませんが頑張ります。 が、これ↓が結論です。 基本的に私自身が考える私の役目としては、トレーニングを指導するというより、最終的に選手のパフォーマンスが上がれば良いという割り切り方をしています。というかそれが本来のトレーニングの目的です。(ファンクショナルトレーニングなんて言葉を使わなくてもそもそもファンクショナルでなければトレーニングではないので、全てのトレーニングはファンクショナルであるべき) 極端なことを言えばフィジカルトレーニングをして、あとはガンガン練習をすればフィジカルトレーニングが競技動作に「勝手に」運用されて(転化されて)パフォーマンスが自然と上がるというのが理想です。(運用される前提条件が整っている必要があるが) その為に型が必要なのです。その型はヒップヒンジであったり、腹が抜けない姿勢だったり、様々だとは思いますが、とにもかくにも、それが動きの中で普通に運用されるように型(折り目)をしっかりとつけておくということです。実際の競技に入ってしまえば動き方なんかに気を配っている暇も余裕もないはずなので、それは自動化されるまで下意識に落とし込んでいきます。 ここで大事なのは“感覚”です。トレーニング中(分かりやすく言えばウエイトトレーニング中)であればとことん意識を動きの方に向けられるので、この角度ならこの筋をうまく動員できるとか、張力が上げられるだとか、楽に重りを上げられるだとか、そういったことにがっつりと意識を集中させます。そうして(ウエイト)トレーニング中に、「あ、今のうまくいった」「今のは失敗だった」という体験をどんどん積んでいきます。 その上で実際に競技動作をした時に同じような感覚が出てくればしめたものです。それは言い換えれば動きのコツとも言えるかもしれません。「あぁこういう風に力を出せばうまくいくのか」という感覚をいかに引き出せるかが鍵になります。 この辺のことは以前「 アハ体験を共有する 」に書きました。 そこまでいけばあとはどうぞご自由にプレーしてくださいということで。技術、戦術、いろいろあるでしょう。動きの感覚はある程度プログラミングされてますから、勝手に