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1月, 2019の投稿を表示しています

過ぎたるは猶お及ばざるが如し

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前回の臨界期の話をすると大抵は、「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」という風になってしまいます。しかし先に述べたように、物事には習得の適齢期というのがあって、後段に譲りますが前出の糸山先生も同じ主張をしています。 一つ、良記事を紹介します。 『松坂大輔の野球人生は成功か。恩師と考える、球児の早熟化』 横浜高校野球部の元部長である小倉清一郎さんのインタビュー記事です。 以下本文の引用になりますが、 「 失敗というと語弊があるけど、『もうちょっとこれは練習しないといけない』『あれも練習しないといけない』という未完成な部分を残しておいた方がよかったのかなというのはある 」 平成の怪物と言われた松坂大輔投手への指導を同氏はこう回顧しています。 要は適齢期を無視して飛び級でありとあらゆることを詰め込んでいった結果(もしくはスポンジのように本人が吸収してしまった結果)、伸び代をなくしてしまったということのようです。あれだけの成功者を輩出しておきながら、この境地に至った指導者というのは希だと思います。 子どもは小さな大人ではない というのは以前から当ブログでも発信していますが、何事もやりすぎはよくないですよということですね。2つ前の記事で紹介した「60%の法則」にも通ずる話です。 さて、冒頭の糸山先生の主張に戻ります。 以下、思考の臨界期の引用です。 「能力は開発すればいいというものではありません。幼児・児童期に目ざめさせてはいけない能力もあるのです。特に時期がずれている時(不自然に早く)に発揮される能力は外になります。害になるから自然には発達しないようにプログラムされているのです。それなのに眠っている子を起こして喜んでいるような人が大勢います。幼児・児童期に目覚めた能力は一生の性格(能力によっては一生の弊害)になる場合が多いので要注意です。」 前出の小倉氏の主張と全く同じではないかとびっくりしました。 小倉氏は別の記事で「今の子はすぐに結果を求めたがる」とありました。子を大人に置き換えて、「今の大人(親)はすぐに結果を求めたがる」が本記事の主旨です。 12歳までは「ゆっくり・ジックリ・丁寧に」が最も効果的な学習方法なのです。(糸山氏談)

運動習得に臨界期はあるか

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糸山泰造先生の「思考の臨界期」をある方に紹介していただきました。面白かったので同氏の著書「絶対学力」その他数冊も読了。ぼんやりと思っていたことがスパッと切れの良い言葉で綴られていて、かつ具体的なアプローチも書かれており、また一つ勉強になりました。 12歳までに考える力を身につけないと一生身につけることはできなくなりますよという強いメッセージではあるのですが、どうやら神経学的にこの主張は説明ができるようです。そうだろうなと思っていたことも多く、改めて自分が関わる子どもに対しての教訓としていこうと思ったわけなのですが、運動指導従事者としてもう一つ思い当たる節がありました。 思考の臨界期とはつまりアスリートを育てるのにも臨界期であるということ。 運動の観点から言っても、運動の種別によって習得の適齢期というのがあり、それを逃すと後の習得は不可能と言わないまでも、なかなか大変な作業になるというのはこれまでに幾多も経験してきました。これは単純に投げることができるとか、泳ぐことができるとか、そういうものではなく、段階を経た条件の整備であって、ハイパフォーマンスというのは過去の運動体験の集積の結果成されるものと言ってよいと思います。 ボール勘や相手を欺くフェイントなどは幼少期、児童期のトライ&エラーの賜物だと言えるでしょう。12歳が運動の絶対的な臨界期だとは思っていませんが、臨界期を過ぎてからボール勘を養おうとしてもとても骨の折れる作業となります。コツやカンの基になるのは過去の運動体験ですから、それがない場合にはその体験を積んでいくことからのスタートです(このあたりは前回の運動の制御の問題ともリンクしますね)。前にJ・デューイの「経験と教育」の話を出したことがありますが、経験していない昨日の自分と経験をした今日の自分は別物で、当然パフォーマンスも異なってきます。 それともう一つ、アスリートというのは単に運動能力がモノを言うわけではないので、当然人格が必要になってきます。人格と言っても徳の問題ではありません(当然あるに越したことはないのですが)。負けん気な性格とか、自己犠牲だとか、目標に向かって努力することとか、内省を次に生かすこととか、周りの協力を得ることとか、そういった人格がスポーツで頂点を極める上で必要不可欠になってくると思うのです。その点においては

巧みさとは制御すること

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コオーディネーショントレーニングという言葉が日本に入ってきたのは1980年頃だと文献より把握しているので、およそ40年の月日が経とうとしています。それでもまだ正しい理解が広まっていないように感じています。 コオーディネーション能力は調整力や巧みさなどと表現されることも多く、器用に身体を動かすことという認識が広まっています。これは間違っていないとは思います。ただし考え方の問題で、様々な要素を“動員”して事を成すのではなく、様々な要素を“制御”して事を成すというのが巧みさの神髄だと思うのです。 2つ前の記事 で運動の観点として 『適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す』 ということについて書きました。 これには時間、空間、エネルギーの要素が関わってきます。 無数にある時間や空間の選択肢の中で、時が来るまで我慢(制御)した上で、暴れる、または有り余る力を制御して使うという行為。選択をするということはその他の選択肢を排除するということです。 例えば「水の入ったグラスを口に運んで飲む」という日常的な動作ですらこのプロセスは行われています。グラスを壊すことのないよう力を抑制し、ただし落とすことのない程度の力を発揮してグラスを持ち、無数にあるテーブルから口までの経路の中で最適な経路を選択し(つまり他の経路を排除し)、早くも遅くもなく水がグラスの口に向かって流れ始める時を見計らって口を開いて飲む。例えは違えどスポーツ現場でもこのような運動の様態は同様に行われます。 いかに必要無い時間、空間、エネルギーを排除して、最小努力で目的とした事を成すか。これこそが本当の巧みさであり、コオーディネーショントレーニングというのは、とどのつまり制御の精度を高めるトレーニングと言えるでしょう。動きが巧みな人を見ると、そのスムーズさや脱力具合が見てとれるのはそういう制御の能力に長けているからということですね。 ちなみに、人が真似できないような奇抜な技の習得を狙ったコオーディネーショントレーニングも見られますが、それ自体が目的ならばそれはそれでいいと思います。しかし、ある競技力向上を目的としたときの手段としてコオーディネーショントレーニングを用いるのであれば、主旨は違ってきます。昨今流布しているコオーディネーショントレーニングはトレーニング自体が目的化してしまって