巧みさとは制御すること

コオーディネーショントレーニングという言葉が日本に入ってきたのは1980年頃だと文献より把握しているので、およそ40年の月日が経とうとしています。それでもまだ正しい理解が広まっていないように感じています。

コオーディネーション能力は調整力や巧みさなどと表現されることも多く、器用に身体を動かすことという認識が広まっています。これは間違っていないとは思います。ただし考え方の問題で、様々な要素を“動員”して事を成すのではなく、様々な要素を“制御”して事を成すというのが巧みさの神髄だと思うのです。

2つ前の記事で運動の観点として
『適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す』
ということについて書きました。
これには時間、空間、エネルギーの要素が関わってきます。

無数にある時間や空間の選択肢の中で、時が来るまで我慢(制御)した上で、暴れる、または有り余る力を制御して使うという行為。選択をするということはその他の選択肢を排除するということです。

例えば「水の入ったグラスを口に運んで飲む」という日常的な動作ですらこのプロセスは行われています。グラスを壊すことのないよう力を抑制し、ただし落とすことのない程度の力を発揮してグラスを持ち、無数にあるテーブルから口までの経路の中で最適な経路を選択し(つまり他の経路を排除し)、早くも遅くもなく水がグラスの口に向かって流れ始める時を見計らって口を開いて飲む。例えは違えどスポーツ現場でもこのような運動の様態は同様に行われます。

いかに必要無い時間、空間、エネルギーを排除して、最小努力で目的とした事を成すか。これこそが本当の巧みさであり、コオーディネーショントレーニングというのは、とどのつまり制御の精度を高めるトレーニングと言えるでしょう。動きが巧みな人を見ると、そのスムーズさや脱力具合が見てとれるのはそういう制御の能力に長けているからということですね。

ちなみに、人が真似できないような奇抜な技の習得を狙ったコオーディネーショントレーニングも見られますが、それ自体が目的ならばそれはそれでいいと思います。しかし、ある競技力向上を目的としたときの手段としてコオーディネーショントレーニングを用いるのであれば、主旨は違ってきます。昨今流布しているコオーディネーショントレーニングはトレーニング自体が目的化してしまっていることがとても懸念されます。

もう一つ、コオーディネーショントレーニングは“過程”が大事なのであって、あるスキルを習得することが狙いではないのです。それをどうしても完成するまでやってしまうと、動作が自動化、または習慣化されてしまって、刺激は薄れてしまいます。トレーニングとはいわば“刺激”のことですから、刺激がなくなってしまっては意味がないのです。「60%の法則」とは鳴門教育大学の綿引先生の弁ですが、6割程度できたのなら十分に刺激は与えられているので、次の課題に取り組んでいくのが良いとされています。

まとめ

・コオーディネーショントレーニングとは制御の訓練である
・それ自体が目的化してはいけない
・完成はゴールではない


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