投稿

9月, 2017の投稿を表示しています

フィジカルトレーニングとしての登山

先日山登りトレーニングに行ってきました。 舞台は100名山の中で最も低い山、筑波山(標高877m)。 それでも頂きが2つある山の反対側まで行って帰ってくるのでなかなかの道のりです。 行く度に山登りはとても良いトレーニングだと感じます。 そんな登山のトレーニング効果というものを3つに絞ってちょっと(否、かなり)理屈っぽく書きます。(消費カロリーだとか心のリフレッシュだとかの効果はインターネットに譲ります。) まず特筆すべきは“選択の連続”であるという点。 登りにおいても下りにおいても、踏み出す足をどこに置き、それはどの角度で、どういう形状をしていて、どのぐらいの予備緊張が必要で、ジャンプで跳び越えられるのか否か、、、と挙げればキリがないぐらいいろいろな要素が“毎ステップ”考慮されなくてはなりません。スポーツにおいて、特に球技系は刹那の決断・選択の連続ですから、この毎ステップ選択に迫られる登山は本当に良いトレーニングです。ましてや先日は前日の雨で山肌も濡れていましたからより高度な緊張が伴いました。これに時間という軸が加われば時間的プレッシャーを含む多様な心理プレッシャーと戦わなければいけません。実際のところ、競技レベルと山下りのスピードにある程度の相関関係がある気がするので、選択・決断のスピードと精度が問われている証拠でしょう。 次に“制御の連続”であるという点。 制御も前述の選択の一つとも言えますが、選択したステップにおいて自分の身に起こるであろうことを制御して暴れる重心を基底面内に納め、転倒することなく次のステップに移る。特に下りにおいては一気に位置エネルギーを減少させたがる重力加速度と勝負しながら下りるので、それを制御しながら下りなければいけません。ちなみに自由度の制御こそが巧みさ=デクステリティであると旧ソ連の生理学者ベルンシュタインは述べています。まさに登山はその巧みさを養うにはもってこいのトレーニング方法であると言えます。 そしてその仕事量。仕事量というのは単純に言えば『力x距離』で表されます。 例えば体重78kgの私が877mの山を登った場合、 78kg x g x 877m = 68,406 N・m の仕事をしたことになります。 (スタートが海抜0mでないことや途中アップ&ダウンがあることは無視しての単純計算です。) そし

子どもには教育ではなく放育を

イメージ
子どもを育てるには、「教えない」のが良いのではないだろうか。 ルソーの消極教育に洗脳されたわけではないですが、近ごろの習い事を見ているとそんな風に感じます。勉強でもスポーツでも文化的なものでも、きっちりと整理されたプログラムがあり、教える方もマニュアル通りに教えているように見えます。 よくあるのが算数で答えは合っていても途中式がないまたは教えた通りでないから不正解というパターン。算数なんて数の概念だから求めているものが求まればいいわけです。それをどう導き出すかは個々のプロセスがあって良いのではないでしょうか。英語だって言語自体はコミュニケーションを取る手段に過ぎないのだから、伝われば役目は果たせているはずなのに正しく整理された英語を小さな子どもに教育しています。 同じ例では他のことでも言えます。投げ方や打ち方を細かく教える野球クラブ、蹴り方やフォーメーションを刷り込ませるサッカークラブ、腕の振り方や脚の挙げ方を統一するかけっこ教室。そう、あたかもそこに正解があるかのように。まるでロボットのプログラミングと同じです。子どもはそういう指導を受けると、それしかやっちゃいけないんだと思ってしまいます。そして「なぜそうしたの?」という問いには、「コーチがそう言ったから」という答えになってしまいます。そこには考えたことも感じたことも存在しません。 子どもはロボットではないのですから、プログラミングは必要ないわけです。プログラミングをされた子どもはそれしかできなくなります。以前、『 アスリートが育つ環境 』と題して書いた記事にはスラム街から出てきたアスリートのお話をしましたが、“教育”が整備されればされるほど、特出した人材は生まれてこないのではないかと思ってしまいます。 帰納的学習法。 コーチの役割はバリエーションを提供して偏差的学習とする。 こう言ってしまうと何やら話が難しくなりますね。 なので、、、 子どもには、教えない。 教えない、運動クラブ。 それでいいんです。 答えはそこにあるような気がします。 ヒップエクステンションを動力源とする トリプルエクステンションの後方への応用(なんちゃって) ※ちなみにタイトルにある“放育”は記事を書いている時に思いついた造語です。(すでに使われてる方がいるようですね)

ファンクショナルトレーニングの究極系は競技そのもの

ファンクショナルトレーニングという言葉が世に出回って久しい。 最初にその言葉を聞いたのはいつだろうか。10年以上は経っているかもしれない。 で、そのファンクショナルトレーニングって何でしょう? 調べてみても定義は体幹とかゼロポジションとかといった他の用語と同じく曖昧なようですね。 私自身は恩師(と勝手に思っている)から教えてもらった 『ファンクショナルでなければトレーニングとは言わない』 という言葉を大切にしており、それを聞いて約10年になろうという現在、至極真っ当な意見であったとどんどん腑に落ちていく感じが止まらないのです。私なりの言葉で言い換えるなら、行なっているトレーニング内容の合理性、つまりどのような運用がなされ、パフォーマンスの向上につながるかということが理論的、論理的になければならないということです。 ところが最近流布しているファンクショナルトレーニングと言われるものを見ていると、どうも競技の動きに似せたものや、現存するトレーニングではない目新しいものを目指しているように見えることが多々あります。原理原則を外さないよう指導を受けた私にとっては違和感を感じずにはいられません。むしろ同業者としては残念な気持ちになることもあります。しかしトレーニングの真理というのは私も分からないですから、結局は個の意見、個のコンセプトというところに落ち着くのでしょう。 でも例えば思い切って前述したようなファンクショナルトレーニングを発展させていった場合、それって最終的には競技の動きになるんじゃないの?と思ってしまいました。(それが今この記事を書いている発端です。) なるほど、それではその競技の練習をガシガシやれば良いわけですね。それ以上のファンクショナルトレーニングはないでしょう。負荷が必要っていう意見にはウエイトベストを着たり重い道具を使ったりして。発想としては面白いですね。それで結果が出ればファンクショナルトレーニングの真理ここにあり!と言えるでしょう。 しかし私個人の意見では本来フィジカルトレーニングというのは競技の練習とは別物です(というよりは競技トレーニングの一部がフィジカルトレーニング)。究極的にはフィジカルトレーニングをガシガシやって、競技トレーニングもガシガシやった結果、パフォーマンスが上がるというのが理想です。そこにはフィジ