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スポーツやアスリートの存在意義や存在価値

久々の更新です。というより更新する時はいつも久々です。 今回は2名の尊敬する指導者の投稿を紹介したいと思います。 1人目は朝倉全紀氏 https://www.facebook.com/masaki.asakura/posts/10209716838580017 2人目は勝原竜太氏 https://www.facebook.com/ryuta.katsuhara/posts/685956144843795 私自身、日々スポーツの存在意義、アスリートの存在意義や価値に関して思いを巡らせていますが、上記2氏の文章には大変感銘を受けました。 本来スポーツというものは第一次産業と違い、ヒトという生命体の維持活動や種の保存に直接関係のあるものではありません。端的にしかも大胆に言うと無くても生きていくには困らないものであり、言い換えれば余暇や余財を使って行われるものと言えるでしょう。 ではなぜスポーツは存在し、アスリートは研鑽を積むのでしょう。 答えは個によって異なると思いますが、朝倉氏の言うようにhuman enhancementや社会へのインパクトというのはやはり重要なファクターであるのは間違いないでしょう。 自分の実力を上へと伸ばす努力は最低限であり、真のアスリートというのはそこから更に自分がいかに他に影響を与えられるかという部分まで視野の範囲を広げられることでしょう。(ここで言う"他(タ)"には、自分のライバルすら含まれるはずです。) かっこ良く言えば、夢、希望、生き様、感動、そういうことを与え、見せることが一つの責務です。責務ということは、そういったカッコイイ産物を創造するための責任を負い、それにより自分が社会の一部となり、そこで生命維持活動には必要のない余暇余財を使ってのスポーツにおいて自分の存在価値が生まれることになるのだと思います。 ダルビッシュ投手は、「自分には責任がある」と言っていました。 https://youtu.be/KuAAuwRAwjs 上記のようなことを成し遂げる権利を得たものは、そのために勝原氏の言うように全ての要素を追求し、コーディネートし、高みを目指す責任があると。しかも彼のようにアスリートが高みを目指すのは自分のエゴでは無く、あく

動きの持久力

久しぶりの投稿です。 今回は動きの持久力について。 「試合の後半に体がブレてくる」 これは現場で往々にして耳にすることです。 最近は「体幹」という言葉が踊っていますが、これを「体幹が弱いから」と片付ける風潮が特に技術指導者と一部のトレーニング指導者にある気がします。非常に残念なことです。 はっきり言って他の身体の部位より体幹の持久力が劣るということはないはずです。出力としても他の部位の方がはるかに大きいはずです。仮に体幹の方が先に疲弊しているのであればおそらくそれは体幹の使い方を誤っています。 体がブレるということに関しては体幹の持久力というよりはその動作の主動筋(別の言い方をすると出力を行なう元となる筋)の持久力が関係していると考えます。この持久力という表現ですが、もちろん筋持久力は関係すると思いますが、ここでは単純に筋持久力のみを表さないことを先に述べておきます。 本来行いたい動作が出来なくなるということは、つまり動作の持久力がないわけです。動作の持久力というのはつまり神経系の持久力だと考えます。これは「こう動きたい」という意志力の低下が関係します。 要因としては ・動きそのものが自動化されていない ・集中力が欠如 ・動きを感覚として身につけていない(修正できない) ・自分の動きを客観視できない などが挙げられます。 これらは普段の練習でも出来るとは思いますが、試合での精神状態を作ることはなかなか難しく、動きの持久力自体も練習と試合とでは違ってくると思います。そこで、最近では無駄と言われあまり良しとされない千本ノックや同じ動きのパターン練習の意味がこういうところにあると私は感じています。体が言うことを聞かなくなってきたときに、本来行ないたい動作を遂行する意思の有無が重要になってきます。結果としては本来行ないたい動きは出来てないにしても、「そう動こうとする」意思こそが神経系の負荷を与え、動作のトレーニングとして有効であると考えます。 前回の投稿(動きを磨く) では同じ動作は唯一無二であって2度と繰り返されないと述べましたが、とは言っても同じ動作を行なおうとする意思が大切です。単純にスクワット10回にしても10回中10回同じスクワットを行なおうとする意思が大事なのです。ピッチャーの投球で言えば10

動きを磨く

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前回に引き続き大谷選手のインタビューからです。 ミーハーと思われるかもしれませんが、彼の思考、発言が参考になるから仕方ないです。 今回は動作の制度に関して。 記事はこちら→ 「 ボールを自分に合わせる 」 この記事の中では彼が素振りやシャドーピッチングを大事にしているということが書かれています。 確かに彼は鏡の前でよく自分のフォームチェックをやっていました。(そういえば 最近は減りましたが駅のホームで傘でゴルフスイングをやっているサラリーマンいましたよね。) 動作を洗練させることに集中するのはとても良いことだと思います。まずは自分がどう動きたいかがイメージ出来て、それを自分の身体が遂行できるかという能力が問われます。自分が行なった動作を例えばビデオや鏡でチェックしてみるとそこにずれが生じることがあります。これはまだ自分の身体が思い通りに動かせていないことを意味します。ちょっと話は逸れますが下の写真を見てください。書き慣れたはずの自分のサインですら再現性を求められた時に思い通りに書くことはできないということを説明した図になります。動きというのは唯一無二であって、同じ動作は二度と完全には再現されないということは言われていますが、サインとスポーツ中の動作の複雑さを比較したときにどちらの動きを洗練させるのが難しいかは火を見るより明らかです。そういった誤差をなくしていく作業が日々のトレーニングだったり練習だったりするわけです。 話は変わって、自分が“今”行なっている動作を客観的にあたかもカメラで見ているかのように、または第三者となって見ているかのように、感じながら見られるという能力はとても大切だと思います。ダルビッシュ選手や大谷選手はそれがもの凄く上手だと思います。運動能力が優れたアスリートは得てして物真似が上手いことが多いですが、これは自分が見た動作を自分の身体に当てはめながら、そして感じながら再現できる(類似した動作ができる)能力に長けているからですね。以前「 アハ体験を共有する 」というタイトルで記事を書きましたが、指導者にもこの類の“運動の共感”の能力が求められます。選手の悪い動きの例をわざと再現する時などは尚更ですね。 タイトルにもあるようにインタビュー記事では「ボールを自分に合わせる」と書いてありますが、まず自分の思い

トレーニングの目的と結果としての体重増加について

久しぶりの投稿になります。大谷選手がトレーニングとパフォーマンスに関しての意見を述べていたのでそれに関して書きたいと思います。 『 体重増の狙い、憧れの選手は…日本ハム大谷に「15の質問」 』 これまでにも彼なりに考えはメディアに対しての発言していたことと思いますが、メディアのクオリティの問題なのか、あまりきちんと世に伝わっていないと感じていました。そんな中で今回のインタビュー記事はだいぶ彼の考えがストレートに表現された稀な記事だと思います。そして誤解を恐れずに言えばそれが日刊ゲンダイということが驚きです。 本題に入る前にもう一つ、国立スポーツ科学センタートレーニング指導員の河森氏がこの記事に関してブログを書いておられたので併せて紹介いたします(「 ♯322現役アスリートに参考にしてもらいたい、トレーニングに対するプロ野球日本ハム大谷選手の考え方 」)。意見としてとても賛同させていただきたい投稿で、知識量、トレーニング指導者としての実力、思慮深さ、表現力などあらゆる面で、同氏の記事よりもうまく書ける気がしないので、大谷選手のインタビュー記事に関しての意見は河森氏に倣うまでとさせていただきたいと思います。 私がここで述べたいのは、近年体重増加至上主義が選手においてもメディアにおいても偏重され過ぎているということです。アメフトやラグビー、相撲の様に、体の質量そのものがある一定量必要なケースはありますが、野球の場合はそうではありません。体重が増えるというのはある目的のためにある行為を行った結果であるということです。今回の大谷選手で言えば、本人が手に入れたいパフォーマンスというものがあって、それを得るために揃えなければならない条件の一つが力であり、手段としてウエイトトレーニングを選択したということになると思います。これまでもそうだと思いますが、増量そのものや100㎏を目標に置いてやってきてはいないはずです。 それで、彼の例に留まらず、ウエイトトレーニングをアスリートが取り入れる際にはやはり手に入れたいのは『力』になります。ここで注意したいのが「筋力」でなく、結果として何か物体に与える「力」です。筋力が上がっても力そのものが上がっていないケースは前述においての目標に対しては失敗となります。力を手に入れる目的はそれぞれ異なるとは思います。前述の大