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大人(指導者)の役割

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 2つのことわざを紹介します。 『馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』 イギリスに端を発すると言われるこのことわざ。英語だと A man may lead a horse to the water, but he cannot make him drink. と表すのだそう。 これは指導現場においてはまさに言い得て妙。大人ができることは水辺のありかを示し、導くところまで。飲むかどうかは馬次第。「 競技動機としては没頭が最強かもしれない 」という記事を以前にも書きましたが、結局のところ意思がなければ導いても得るものは少なく、いかに「好きこそものの上手なれ」の状態に持っていけるかが鍵となります。 cannotの後の動詞がmakeなので、少なくとも外発的動機付けでは無理だよということを表しているように思います。これを“have him drink”もしくは“let him drink”であればまた話は違ってくるような。「飲みたければ好きなだけ飲ませてあげられるよ」「お好きなだけどうぞ」というように言えること、それが指導者の役割のような気がします。もっと言えば飲みたくなるような環境づくりですね。喉の渇きこそが向上心。それをどのように醸成させていくか。喉の渇きを察知し、的確なタイミングで水辺へ連れていきたいものです。 そしてもう一つ。 『魚を与えるのではなく、釣り方を教えよ』 こちらは老子の言葉で英語では Give a man a fish and you feed him for a day; teach a man to fish and you feed him for a lifetime. と書きます。空腹の人に魚を与えると一時的に空腹は満たされるがその場しのぎでしかなく、魚の釣り方を学ばせることができればそれは一生モノになるという意味のことば。 これを指導現場に置き換えて考えてみます。上手くなりたい選手がいた場合に安易に答えを与えてしまうと一時的な解決にしかならず、長い目で見た時にそれはややもすると逆効果になってしまいます。そうではなくて答えを導く術を学習させることが大事ですね。上達させて やる のが指導者の役目ではなく、自らを上達させられる仕方を手に入れられるよう導くこと、これが指導者の役目だと私は思います。 さきほどのmakeとha

誰のためなのその指導?

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"スポーツを子どもに返そう" 子どもがやるスポーツはやる本人のためであり、決して大人のものではないということを再認識する必要があると感じています。(ここで言う「大人」とは大半において親や指導者を指す) 例えば子どもの大会。大人が子ども以上に必死になっている姿を良く見ます。アップはしたのか?今日はどう戦うのか?気合入りまくって勝つことが最大のゴールであるかのような大人のアプローチ。その大会で勝ちたいのは誰なのさ?そもそもやる本人は勝ちたいと思っているのか?という話。 また例えば普段の練習指導。 「今のはシュートじゃなくてパスだろ!」 「どうして流し打ちしないで引っ張ったんだ!」 「バックハンドじゃなくて回り込んでフォアで打てよ!」 往々にして見られるシーンですね。 ちょっと待って。それって誰のために言っているの?という話。 「ストレッチはやったのか?」 「素振りはやったのか?」 も同じですね。 きっとその子どもは自分なりに意志を持ってそうしたはず(そうでなければ誰かに言われたからそうしたか、誰かの目を気にしてそうしたか)。それをあたかも正解がそこに存在するかのように言われてしまう子どもたち。しかもタチの悪いことに大半の場合良かれと思って大人がそうしているという事実。「お前のために言ってるんだ」と言わんばかりに。 それではせっかく楽しいからやっているはずのスポーツが楽しくなくなってしまうのは火を見るより明らかです。最近流行りの自己肯定感なんて育つはずがない。 正解がないのがスポーツというもの。やりたいからやるのがスポーツというもの。それなのにいつの間にか大人が子どもにいろいろなことを強いてしまっていることが多いです。 子どももはロボットではなく、意志を持った人間なのです。大人は自分の思いで「勝たせたい」とか、「こうやってプレーしてほしい」と強制するのは違うと思うのです。自分が思う通りに行動しないのが子どもってものです。大人がどうしたいかではなく、子どもがどうしたいか。これを尊重したいです。大人の役割はあくまでも環境を作ること。 子どもは小さな大人ではないのです。だから、スポーツを子どもに返そう。