投稿

2022の投稿を表示しています

子どもの「やりたい」は子どものもの

イメージ
スポーツはいつから“習い事”になってしまったのだろうか。 昨今の子どものスポーツを取り巻く環境を見聞きしていると、そんな感想を第一に持ちます。あるスポーツを始めた子どもに対して、定型の技術や戦術を教え込んでいく。本当はそこに正解はないはずなのに。決められたことを教え込んでいくということに多くの意味は感じにくいというのが私の所感です。 今ここで云わんとしていることはスポーツの語源はdeportareという気晴らしを意味する言葉で、、、などといったことではなく、その一挙手一投足に対する指導が誰のためであり、何のためなのかが今一つ分からなくなっているという現状を嘆いております。おそらく指導している指導者自身も分かっていないのではないでしょうか。 考えられる理由としては「上達することで楽しさを感じてもらいたい」「勝つ喜びを知ってもらいたい」といったところでしょうか。そういった目的があることも理解はしており、それはそれで良いと思うのですが、幼少期から学童期におけるスポーツは競技スポーツとは異なり、また体育とも異なります。「やりたいからやる」とか「自己表現」がベースにあるのではないかと思うのです。その中で人間が本来持つ向上したいという欲が生まれ、あーだこーだ試行錯誤が始まるのだと思います。その結果うまくいけば自分事として嬉しいという感情につながります。この向上欲への刺激と試行錯誤と達成感こそがスポーツをやる上で大きな意味合いになってくるのかなと思います。このあたりは前に「 スポーツもR&D 」や「 大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない 」で触れました。 しかし、トーナメントやポイント、ランキングなどが存在するとアフォーダンス的に一気に「習い事」に靡いてしまいます。しかも靡かれる度合いが高いのはいつだって子どもより大人です。「勝ちたい」が「勝たせたい」になったり、「上手くなりたい」が「上手くさせたい」になったりしていきます。 そうやって習い事として育った先には良くないことが2つあると思っています。 一つ目はそのスポーツがつまらなくなること。やらなければいけない動作やプレーが義務感を生み、表現したい自己はかき消され、やりたかったからやっていたスポーツがいつからかやらされるスポーツに変わってしまいます。 二つ目は習った技術や戦術が枠となり、その枠の中でしかプレーができな

「これでいい」という生き方

イメージ
 「うん。これでいい。」 息子が幼少期によく言っていた言葉。お絵描きやら工作やら、自分なりの作品ができた後に誰に伝えるでもなく呟いていました。 前回の記事は「我思う 故に我あり」というデカルトの言葉で終わりましたが、今回は身近な息子の言葉。。 最近では自己肯定感とか自己効力感とか自己有能感とか、色々な言葉が出てきていますがどれもしっくりきません。効力や有能を必ずしも感じなければいけないとは思わないし、肯定というのもなにか違う。自尊心という言葉もありますが、これもなんとなく違う。 自分の行動、そしてその結果に対して「これでいい」と思えることこそが大事なのかなと思います。 私もそうですが日本人は自分の意見を述べることに億劫なことが多いですね。他人と意見が違ったらどうしよう、否定されたらどうしよう、こう考えてしまうと自分の意見を言うことができなくなります。これも前回の記事に書いた「評価」がもたらす悪しき点かと思います。 私が思うのは「意見」は立場に関わらず平等であるということ。議論は意見に対して行われるべきであって、誰が言ったかは本来は議論の論点ではないことが多いです。これは子どもでも大人でも一緒です。お互いが意見や思ったことを述べた上で、議論や会話を広げていけばいいということですね。 今回のこの記事は前回の記事の延長として書いていますが、まずは自分の考えを発想したり、自分の感情を認識したりできることが大切かと思います。その上でそれを他者と共有する。私もそうでしたがこれは練習(経験)が必要です。それができずに苦しんだ時期もあり、今でもそんなときがありますが、私は冒頭の息子の言葉に救われました。 「うん。これでいい。」 そういう生き方をこれからもしていきたいなと思います。

大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない

イメージ
自分は何者なのか?自分は何がしたいのか?自分はどうありたいのか? 自己基盤というらしいのですが、私自身を含めこれがない人が多いと感じています。なぜだろうとここ最近思いを巡らせていて、一つの考えに思い至りました。 「人々は評価をされすぎている」 勉学もスポーツもとにかく評価が多い。学校に行けばテストや成績表で先生から評価され、スポーツをやれば勝った負けたで指導者から評価を受けます。ましてや課題や取り組むべき問題すら与えられるばかりで自発的なものは希少という現状です。評価をされるということはある正解があって、それに合致しているか、少なくとも近づいているかが問われることになります。こういったことに義務教育で9年、後期高等教育以降で更に3年~10年強にわたり晒されることになります。そして社会に出てからも多くの組織においてはそういう仕組みになっています。これだけ他者評価というものを軸に年数を過ごすと自己というものが減殺されていき、冒頭の問いに答えられなくなっていきます。 卵が先か鶏が先かは分かりませんが、自己と同じく失うものとして「内省」が挙げられます。他者の評価が内省よりも先にくると人は内省をしなくなります。内省をしない人は成長は難しいです。スポーツでも同じ問題があります。勝てば良し、負ければ悪という勝利至上主義自体は指導方針の問題なのでそこに正解も不正解もないとは思いますが、いちいちプレーごと、試合ごとに指導者が良い悪いを述べていたのでは子どもは内省するチャンスを失ってしまいます。 本来スポーツ、もっと言えば運動というものは「自分がこう動きたい」と思ったことに対して自発的にそれができたかどうかを振り返りながら洗練させていくものだと思いますが、振り返る機会をもらえずにプログラミングされていってしまう場面が多々あります。体験→内省→考察→試行というプロセスが分断されてしまっています。スポーツは良い教育コンテンツだと言うつもりはないですが、この行動サイクル-体験学習モデルがスポーツにおいてはとても良いテンポで行われます。ここまで早いサイクルで回るものはあまりないかと思いますが、スポーツでなくても内省や振り返りの機会とトライ&トライの機会をたくさん得られればきっと自己成長につながるものと考えます。 ある遊びのシーンでとある男の子からこんな発言がありました 「ちくしょう!明日は絶対

スポーツもR&D

イメージ
前回の記事では遊びとは「R&D」であるということを書きました。今回はスポーツというものについて考えてみます。 考えれば考えるほどスポーツも結局のところR&Dであることがよく分かります。研究と開発。しいて言えばそれの披露の場としての試し合いがあることが現代スポーツと遊びの違いでしょうか。 以下、ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」(1938)からの引用です。 「遊びは自由な行為であり、「ほんとのことではない」としてありきたりの生活の埒外にあると考えられる。にもかかわらず、それは遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。それは自らを好んで秘密で取り囲み、あるいは仮装をもってありきたりの世界とは別のものであることを強調する。」 冒頭の「遊び」を「スポーツ」におきかえても意味合いが通じるあたり、スポーツは遊びとかなり相似状態にあると思います。実際の話、ホイジンガの遊びは「戦い」と「演技」に通じています。 スポーツは自由な行為であり、一定のルール(秩序)に基づいて行われ、秘密にR&D(これを練習とか特訓と呼ぶこともできるかもしれない)したものと言えるのではないでしょうか。 以前にもストリートスポーツについて書いたことがありましたが( アスリートが育つ環境 )、ストリートスポーツはR&Dの典型だと思うのです。別の場所で泥団子は究極のR&Dだと書きましたが、ストリートスポーツもそれに似たものがあると思っています。昨日より今日、今日より明日、より良い泥団子(技、戦術)を磨いていこうというしごく純粋な動機。これこそが物事を極めていく際にとっても大事なことだと思います。私が関わってきた中ではそうやって研究と開発を楽しんでいた(いる)選手が今サンディエゴとアナハイムで驚くほど高いパフォーマンスを出しています。 スポーツが習い事化もしくは職業化するとこの本質性は薄れ、「やらなければいけないこと」や「結果を出さなければいけないこと」になってしまい、それはそれはつまらないものになってしまいます。 少なくともスポーツに親しむ子どもたちにはこのスポーツ=

遊びと学び

イメージ
「遊び」の意味を、いわゆる「R&D (研究・開発)」と言えるものだといったら、たぶん分かりやすいだろう。「R&D」は「ポスト産業時代」において名誉ある地位を獲得してきた言葉だが、それは子どもたちの「遊び」が果たしている役割をほとんど完璧に書き出すものである。 最近読んだ「自由な学びとは―サドベリーの教育哲学」(Daniel Greenberg 2010)の一説です。 サドベリー・バレー・スクールについては前から興味を持っていて、ルソーの教育哲学を著した「エミール」を地で行くものなのかなと想いを馳せており、私がライフプランにしようと考えている教育の筆頭事例です。とはいえあまり深く踏み込んでいなかったのですが、最近になり再び自由意志、自主性、没頭、実行力といったことを学ぶ過程でこの本を手にして読んでみたら驚きの連続でした。 まずもって前述の著書は30年以上も前に書かれており、もっと言えば同スクールは1968年が設立年なので50年以上も前に「ポスト産業時代」ということを前提にした教育哲学に辿り着き、それを実行している点に驚きます。そして50年余りという歴史がその確信に近かった仮説を実証してきています。 自由な学びをというコンセプトでありながら“学校”と名付けたこともずっと疑問に思っていましたが、そもそも私の中の“学校”の概念がずれていることにも気づかされました。グリーンバーグ氏の端からこういう学びができる場所こそが“学校”なのだという主張もこの本を読んで腑に落ちました。 著書では社会情勢や人間の本質的な部分にも触れており、自由な学びの背景にここまでの根拠、信念、情熱、そしてなにより知識を持って成り立っているということには感動すら覚えました。 遊びとは誰からも強制されることもなく、誰からも評価されるものでもなく、ただやりたいからやっているだけであって、それ自体が目的であり(いや、目的ですらないのかもしれないが)、自分が興味を持ったことに対して追及していくものであるとは前から考えを及ぼしてはいましたが、「研究と開発」とはまさに言い得て妙。子どもたちの遊びを毎日目の当たりにする中でやはり行きつく先は“好きこそものの上手なれ”。ノーベル賞受賞者がこぞってそう口にしていることからも実証済みと言えるのではないでしょうか。 情報や知識が与えられることが当たり前になり、こ

全国大会の賛否について

イメージ
全日本柔道連盟が、全国小学生学年別大会を廃止したというニュースが話題となっています。 為末大さんなどもコメントをしておりますが、私なりに頭を整理する意味でこれを書いています。賛否両論あるのは承知の上で、双方の観点から見てみることにします。 まず、廃止すべきだという意見について(勝利至上主義の弊害) 1.勝利至上主義によるスポーツマンシップの欠如 勝ちを目的とした場合に、それに固執するばかりにスポーツマンとして大事な考え方が損なわれる可能性があります。反則点を誘って逃げ切るとか、相手に嫌がらせをするとか、勝てば官軍と言わんばかりに勝つための手段をぜんぶやるということが考えられます。 2.勝利至上主義による競技の早熟化と伸び悩み 小学生で勝ち(タイトル)を目指すと、勝つための技術や戦術を先行させて長期的な視野での競技力向上でなくなる可能性があります。例えば多くのスポーツでは小学生においてはミスをしない方が勝つのでそういう戦術を植え付けてしまうし、もしくは力や体格など一芸に秀でている方が勝つので、(他の技術はお粗末でも)ある特定の能力に特化した選手が作られてしまいます。物事には段階というものがあるので、長期的な段階を考えずにその時だけ必要なことを手に入れようとすると長い目で手に入れるべきものが手に入らなくなるリスクがあります。 3.主体性の欠如 全国大会のような大きな大会になればなるほど、勝ちたいのは大人です。私自身もいくつかの全国大会を目にしてきましたが、本当に子どもよりも大人が必死なのです。子どもの品評会よろしく大人があれやこれやを支持してロボット化していきます。その結果子どもは考えることを放棄して大人の気のすむように行動するようになります。その先にあるのは主体性に欠いたまま大人になっていく姿です。当然のことながら競技の伸びしろは少なくなります。 4.勘違いする 全国大会に出るまたは、そこで勝つようなことになると、どうも自分はそのスポーツでは秀でていると思ってややもすると天狗になってしまいます。それはそれで自信という意味では良い気がしますが、タチが悪いのは大人がそうなってしまうことです。親や指導者が舞い上がってしまい、あたかもスーパースターを扱うように子どもを扱っていくことになります。「強いことはすごいことだ」という勘違いが人間としての成長を阻害してしまう可能性

子どもが辿る道

イメージ
近年、中学受験の割合が高まっていて、それに対する準備として塾に通う割合も高まっていると同時にその年齢はどんどん早まっているという傾向があります。私が普段接している子どもたちも例に漏れず小学4年生、早い子は3年生から塾に行き始めます。 「あなたはなぜ塾に行くのですか?」 この質問を小学4年生に問うてみると、どんな答えが返ってくるでしょう?子どもが答えることは想像に難くない気がします。 1.親または学校の先生が行けと言うから(行った方が良いと言うから) 2.周りの友達が行っているから 3.受験のために必要だから この3つの答えが大半を占めるでしょう。いずれも主体性に欠けた答えかなと思うわけです。3は一見主体性があるように感じますが、では次の質問をした場合はどうでしょうか? 「あなたはなぜ受験をするのですか?」 これに主体的な答えをもっていて自分の言葉で説明ができる小学4年生が果たしてどれほどいるでしょうか。先の質問で3と答えた子どもはきっとここではこういうことが考えられます。 「良い大学に行くため」 「良い高校に行くため」 意地が悪いと言われそうですが、そうなるとこの質問が次に来ます。 「なぜ良い大学に行くのですか?」 予想される答えは「良い会社に就職するため」ということが考えられますが、以下のように続いていくと、、、 「なぜ良い会社に入りたいのですか?」→「お金を稼ぐため」 「なぜお金を稼ぎたいのですか?」→「なんでも買えるから」 「何が買いたいのですか?なぜですか?」→「・・・。」 となります。 最後のところまで答えられたら本当に主体的に考え自分の意志で進路選択をしていることになりそうですが、そんな小学生はおそらく殆どいないのではないでしょうか(大人でも少数かと思います)。 そもそも良い高校、良い大学、良い会社って何でしょうか?その定義は子どもにはできないでしょうし、その定義は時代によって変化をしています。おそらくはその時々の親または身の回りにいる大人の価値観に侵されている可能性があります。 そもそも現在ある職業の多くが10~20年以内になくなると言われており、裏を返せば今の子どもたちは今は無い、または今の大人たちが知らない職業に就く可能性が高いと言われています。(ちなみに、恐ろしいかな「現在の職業の約半数が10~20年以内に人工知能やロボット等で代替可能になる」と