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5月, 2017の投稿を表示しています

家庭菜園に選手育成を重ねる

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先日、夏野菜を植えました。 今回は苗から。 収穫が楽しみです。 さて、冬はほうれんそうと小松菜をたくさん作ったのですが、種から育てるときに毎回思うことがあります。 それは間引きの時。 育ちの良い芽もあれば悪い芽もある。 職業病とも言えるでしょうか、それが子どもたちへの運動指導に重なってしまって。 野菜を育てる鉄則としては育ちが悪い芽は摘んでいく。 そうすると育ちが良い芽がより元気になっていく。 早熟が残って晩熟は残らない。 それがなんだか寂しくて。 少し離れたところにポツンと植えてかえてやる。 そうすれば育ちが悪い芽もなんとか成長するチャンスがあるんじゃないかって。 運動指導も同じ。 同世代の中では今は劣っていても伸ばせるポテンシャルはあるはず。篩(ふるい)にかけるのではなく、どうしたらその子を伸ばせるかを考える。 その子が伸びていない理由はなにか。 練習量?運動経験?家族構成?育て方?それとも愛?子どもであればいろいろな要素が絡んできます。なんとかそれを見つけて伸ばしてあげたいなと。いや、伸ばしてあげたいというのはおこがましいですね。私にできるのはその子が伸びる環境を整えてあげること。 伸びる伸びないはその子次第ではなく、環境次第だから。 さて、野菜の話に戻りますと、実際に前述のようにポツンと植え替えた芽が元気よく育ったケースがありました。 そして収穫期には早熟のやつをどんどん収穫する。まだ育っていないやつに育ってもらうために。貧乏性という性格も相まって間引きも極力少なくして、育ちが悪いやつも育ちがいい奴が抜けた後に収穫ができるようにしています。(玄人はそんな野菜の育て方はしないのでしょうけども。) 子どもの育成も似たようなことがありますよね。 植物は正直です。 育て方を間違えなければ応えてくれます。 ところが人間はそうはいきません。 早熟とか晩熟とか、見極めも難しければ、育成も一筋縄ではいきません。 きっとそれが醍醐味なんですよね。 子どもの未来のために勉強します。 こちらは去年の夏野菜 なかなかの出来でした

あそびとスポーツ

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あそびということにハマっている以上、ある程度あそびについて勉強しないといけないなと思い、先日ヨハン・ホイジンガ氏の「ホモ・ルーデンス」とロジェ・カイヨワ氏の「遊びと人間」を読んでみました。結論を一言で言うととても難解でした。が、とてもよい勉強になりました。 両氏は遊びの定義を以下それぞれのように述べています。 ホイジンガ氏の定義 「 遊びとは、あるはっきり定められた時間、空間の範囲内で行われる自発的な行為もしくは活動である。それは自発的に受け入れた規則に従っている。その規則はいったん受け入れられた以上は絶対的拘束力をもっている。遊びの目的は行為そのもののなかにある。それは緊張と歓びの感情を伴い、またこれは『日常生活』とは『別のもの』をという意識に裏づけられている。 」 カイヨワ氏の定義 「 ①自由な活動;すなわち、遊戯者が強制されないこと。もし強制されれば、遊びはたちまち魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。 ②隔離された活動;あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。 ③未確定の活動;ゲーム展開が決定されていたり、先に結果がわかっていたりしてはならない。創意の必要があるのだから、ある種の自由が必ず遊戯者側に残されていなくてはならない。 ④非生産的活動;財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。 ⑤規則のある活動;約束事に従う活動。この約束事は通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。 ⑥虚構の活動;日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。 」 よくよく読めば共通しているようです。それは自発的な活動であり、一定の規則を持ち、遊び自体が目的でありつまりは何も生み出さないということ。私の理解では簡単に言えばそういうことのようです。 これって、スポーツ活動と似ているなぁと思いました。 自発的、つまりやりたいからやる。楽しいから、歓びがあるから。やはりスポーツはそうでなくてはならないと思います。(職業としてのスポーツはこれとはちょっと違うでしょうか) あそびもスポーツもそれ以上でもそれ以下でもないんですね。ただ、これま