その遊びは誰のものなのか
「遊び人の内部に統制の座があるか」 (E. ノイマン) 内部的な統制の座 ── その場のその行動をコントロールしている主は誰か。主体性はあるのか。その遊び手が「何をいつどうするのか」「いつ止めるのか」などを決める権利を有している。 やるorやらない、どうやるのか、誰とやるのか、どこでやるのか、これらすべての決定権が行動主にあるということ。それがないものは遊びとは言えない──。 ここで、大人が口を出そうものならその遊びは一気に興ざめします。「〇〇ちゃんも入れてあげたら?」「そこは砂場じゃないからこっちでやろうね」「輪ゴムを使うとうまくいくんじゃない?」 こういった声かけは良かれと思って発せられているとは思いますが、子どもにとっては余計なお世話。 子どもには子どもの世界観があるのです。 他者の(特に大人の)口出しが入った時点でそれは遊びではなく「仕事化(義務化)」され、つまらない作業となります。この点は「遊び」と「それ以外」を明確に分けるようです。 これはスポーツでも当てはまります。以前、『 “っぽい”は“っぽい”ままでいい 』という記事にも書きましたが、スポーツの主体は誰にあるのかはとても大切です。ああしろ、こうしろと言われた瞬間につまらなくなります。大人の一部の職業スポーツは例外として、スポーツは誰かにやらされるものであってはならないし、主体性は本人にありつづけるべきです。子どもは子どもなりに試行錯誤を繰り返していますから、まずはそれを認めること。 ちなみに、冒頭のノイマンは「遊びかそれ以外(作業)か」を分けるものとして他にも以下の2つを挙げています。 2. 内発的動機づけ(Intrinsic Motivation) ──── 行動そのものが目的か 3. 現実の懸垂(Freedom to Suspend Reality) ── 嘘っこの世界を楽しめるか 2の行動そのものが目的かというところも正鵠を射ています。何かを達成したいとか、達成した後の報酬が目的なのではなく、その行為そのものが報酬であり、目的となっているのが遊びです。「やりたいからやる」それが遊びです。(この点はスポーツと少し異なる性質を持っているかもしれません) 3の噓っこの世界。これも大事ですね。この棒は単なる棒ではなくて、魔法の杖と言える世界観。漫画の必殺技を使っている...