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フォームを変える時の違和感

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ある動作の様式を変える時、分かりやすく言えばフォームを変える時、そこには多分な“違和感”が伴います。 動作様式を変えると一言で言ってもそれはすなわち今まで慣れ親しんできた動作を一度壊して、また構築する作業です。 元の動作に慣れ親しんでいればいるほど、またその動作を行ってきた期間が長ければ長いほど、変化による違和感は大きく、また変えるためのエネルギーも多くいることでしょう。 問題はその違和感に耐えられるか   です。 正確にはパフォーマンスの低下に耐えられるか  とも言えます。 パフォーマンスを上げるために変化を求めたのに、その動作に違和感を感じ、諦めてしまうケースがあります。自分の動作を一度壊しているのだから違和感を感じることはもとより、パフォーマンスが一時的に低下するのは当たり前なのにもかかわらず。 利き手でない方で箸を使うことを考えれば想像に難しくないと思いますが、利き手と同様に扱うまでにはそれはそれは多大な労力が必要でしょう。実際に加える変化や感じる違和感はそれほどまでではないにせよ、こういった労力は少なからず必要です。それを耐えて、信じ続けて、新しい動作が慣れ親しむまで繰り返し、新しい動作様式を構築する必要があります。 その結果、元の動作が行えない、またはものすごく違和感を感じる動作になっていることでしょう。そうなったらシメたもので、新しい動作が自分のものになった証拠です。それは元の動作様式が忘却され、新しい動作が無意識化まで落とし込まれたことになります。 ただし、それには指導する側にも根拠と責任が必要で、それがなければ納得して取り組めないし、新しい動作を手に入れるまで継続できないでしょう。裏付けとなる証拠、説明、ゴール、覚悟を持って取り組むことが指導者に求められます。 これには落とし穴があって、理論的には正しいことでも、選手本人が動作を一度壊してまた構築し直すということができずに、結果的にパフォーマンスが下がるというリスクも伴います。そのリスクには今度は指導者側が耐えられずに新しい動作を手に入れる前に諦めてしまうケースもあります。最悪のケースは動作は壊せたが構築できず、そして元の動作にも戻れなかった場合ですね。 そういう動作を壊すとか構築するとかいった作業を左右するのはコツとかカンであり、その背景にはやはりこれまで

(広義での)トレーナーにはその競技経験が求められるか?

ある競技の選手を指導する際、求められるものの一つに競技経験があります。 それに関して、私の個人的な意見を述べるとすれば、「あるに越したことはないが、なくても良い」という至って平凡なものになってしまいますが、大事なのは指導する側の運動財(※)です。 (※運動体験により蓄積された運動感覚、コツ、カンのようなもの。身体知という言葉も類義ではあると思いますが、ここでは私がイメージしやすかった運動財という言葉を使用します。) 動きを見ていて、「あ、今こういう感じ方をしたんじゃないかな」「こういう力の入れ具合でやったらうまくいくんじゃないかな」というような推察はこれまでにそういう感覚を体験した人間にしかできません。指導者がそういった感覚を持ち合わせていなければ選手と感覚の共有を図れることもないし、共通言語を使ってのやりとりもできないのではないでしょうか。コーラやビールを飲んでいるCMを見て美味そうだなと思うのも自己の体験があるからこその感覚です。 もちろんその指導者が指導対象者と同じ競技をあるレベルまで突き詰めていれば指導にも深みが出ると思いますし、選手からの共感や信頼も得やすいのは事実だと思います。でもそうでなくても豊富な運動財があれば、「今ボールが軽く感じたでしょ?」「お尻を使って上手く地面を捉えられたでしょ?」といったように、指導対象者が実践している運動を見てあたかも自身がその身体に入り込んで運動しているかのように感じることができるはずです。 フィジカルトレーニングの指導者で言えばウエイトトレーニングを見て「今の動きだとお尻じゃなくて腿がキツかったんじゃない?」といった摺り合わせになるでしょうし、技術コーチで言えば「あの場面、力んで腕が遅れただろ」といった技術感覚の共有になると思います。 表題に「広義での」と書いたのはフィジカルトレーナーだけでなく、技術コーチも含めてすべての指導者にとって共通に言えることだからです。メンタルトレーナーだって心の感覚の共有は必要ですし、それは栄養トレーナーにとっても同じです。 もちろん指導者自身が到達していない、または体験していないステージの対象者を指導することも多いです(私も含めて実際そのケースの方が多い)。その際にも運動財があれば摺り合わせをすることができるはずです。それでも「やったこ