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決めるということ

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緊急事態宣言が出されて約3週間、自粛生活を送っていくなかで気づいたことがあります。 子どもたちが意外と疲れている。 外出は制限されているので外に出ても1日1度散歩ぐらいで、外に出ない日も多いぐらいですから、活動量としては平常時よりも明らかに少ないと思うのですが、夕方を過ぎると疲れが見えるようになります。 なぜだろうと考えていると、一つの仮説を思いつきました。 選択、決断の数が違う。 普段の学校生活と今の自粛生活で違うことを考えてみます。 まず、学校においては朝の会が始まって、帰りの会が終わるまで、やることが決まっています。望むか望まないかに関わらず1時間目に勝手に国語が始まり、チャイムが鳴れば勝手に終わらされ、再び望むか望まないかに関わらず算数が始まる、、、。 昼になれば給食。画一的な献立で配膳の量までが決められている。 それが終われば掃除で、どこを誰が担当し、いつまでやるかは既に決まっている。 午後になればまた午前と同じ授業の流れ。 そんなのが午後15時まで続きます。 まるでパブロフの犬のようにチャイムに合わせて学校生活というのは“送らされて”いきます。 ところが今の学校のない生活はどうでしょう。 当然、親次第だということになるのですが、親がそれなりの自由度を子どもに与えたとします。 あらゆる行動を自分で決めなければいけません。朝何時に起きてまず何をするか(制服に慣れてしまった人は何を着るのかも決めなければいけません)。遊ぶにしたって、限られた行動範囲の中(自宅内)で何をするか。仮に粘土や折り紙を選択したとして、学校の図工の時間のように何をどれぐらいの時間で作るのかは誰も決めてくれません。そしてそもそも勉強はするのかしないのか。するとすればいつ何をどれだけやるのか。昼ごはんに食べたいのは何か、おやつは何を食べるのか。テレビやYouTube、アマゾンプライムを見始めたはいいが、いつやめるのか。 これでも一部に過ぎませんが、ざっと挙げただけでもこれだけ5W1Hに富んだ生活をしていることが分かります。その決断の多さが子どもたちを疲れさせるのではないかという仮説です。 逆に言えば平常時はいかに選択をしていないか。現行の日本の学校教育においてはこの選択の数が少ないようです。こうし

スポーツと人間

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人間がロボット化されていく スポーツが機械化されていく 最近私が危惧していることを一言で表すとすればそういう表現になるのかもしれません。体のあらゆる場所にセンサーを付けて動作を解析し、運動強度は常に心拍数で計り、吸う空気や吐く空気の成分を分析し、動員している部位や筋の出力まで弾きだし、投げたボールの回転数や角度まで計測、、、今や数値化されていないものを挙げる方が難しいぐらいなのではないでしょうか。10年前には分からなかった多くのことが今は分かるようになっています。 科学の進歩がどんどん進んで、これだけ分かることが増えてくると、人間の感覚というものが失われていくような気がしています。感覚を別の角度で表すならば、機械計測をせずに分かろうとするチカラとでも言いましょうか。こう動きたい、こう動いたはず、今のボールは良かった、相手が軽い感じがした、そういった感覚こそ、人間が人間たる面白みだろうと思っています。 科学的なデータというのは結局のところ“結果”しか表すことができません。結果として競技者も指導者も“結果”を気にすることになります。指導者も観る目というのがどんどん低下していくのではないでしょうか。もちろん感覚と実際の答え合わせとして科学的データを用いることもあるでしょう。そうは言っても、あらゆる現象のデータをはじき出すことに勤しんでいる様子を見ると、人間が人間として扱われていないような感想を抱いてしまいます。 少し話は逸れますが、フィジカルトレーニングも人体実験のようなものが繰り返され、どんどん細分化され、なんのためにトレーニングしているのか分からなくなっている様子も見られます。そもそも私個人としては細分化されたトレーニングはあまり有効でないという立場をとっていますが、フィジカルトレーニング偏重主義に少し辟易している部分も正直あります。 話しは戻りまして、科学的アプローチは、競技者の目標を達成するため、指導者が結果を追求するため、応援してくれている人に答えるため、見るものをより感動させるため、いろいろな理由が存在するとは思いますが、スポーツってもう少し人間味があったのではないでしょうか。せっかく人間がやるのですから、もう少し人間らしい追及の仕方があるのではないかなと思います。 オリンピックなどの最高峰の競技が成果主義