スポーツと人間

人間がロボット化されていく
スポーツが機械化されていく

最近私が危惧していることを一言で表すとすればそういう表現になるのかもしれません。体のあらゆる場所にセンサーを付けて動作を解析し、運動強度は常に心拍数で計り、吸う空気や吐く空気の成分を分析し、動員している部位や筋の出力まで弾きだし、投げたボールの回転数や角度まで計測、、、今や数値化されていないものを挙げる方が難しいぐらいなのではないでしょうか。10年前には分からなかった多くのことが今は分かるようになっています。

科学の進歩がどんどん進んで、これだけ分かることが増えてくると、人間の感覚というものが失われていくような気がしています。感覚を別の角度で表すならば、機械計測をせずに分かろうとするチカラとでも言いましょうか。こう動きたい、こう動いたはず、今のボールは良かった、相手が軽い感じがした、そういった感覚こそ、人間が人間たる面白みだろうと思っています。

科学的なデータというのは結局のところ“結果”しか表すことができません。結果として競技者も指導者も“結果”を気にすることになります。指導者も観る目というのがどんどん低下していくのではないでしょうか。もちろん感覚と実際の答え合わせとして科学的データを用いることもあるでしょう。そうは言っても、あらゆる現象のデータをはじき出すことに勤しんでいる様子を見ると、人間が人間として扱われていないような感想を抱いてしまいます。

少し話は逸れますが、フィジカルトレーニングも人体実験のようなものが繰り返され、どんどん細分化され、なんのためにトレーニングしているのか分からなくなっている様子も見られます。そもそも私個人としては細分化されたトレーニングはあまり有効でないという立場をとっていますが、フィジカルトレーニング偏重主義に少し辟易している部分も正直あります。

話しは戻りまして、科学的アプローチは、競技者の目標を達成するため、指導者が結果を追求するため、応援してくれている人に答えるため、見るものをより感動させるため、いろいろな理由が存在するとは思いますが、スポーツってもう少し人間味があったのではないでしょうか。せっかく人間がやるのですから、もう少し人間らしい追及の仕方があるのではないかなと思います。

オリンピックなどの最高峰の競技が成果主義として君臨していることが背景にはあるのかもしれません。そんな風潮が結果的にはジュニアスポーツにまで降りてきてしまうから私の心配は更に増してしまいます。スポーツは人間が行うものですから、もっと人間らしくやってもらえたらいいなと思います。私は根がアナログ人間なのですね。




コメント

このブログの人気の投稿

摩擦の不思議と地面反力を考える

誰のためなのその指導?

スポーツやアスリートの存在意義や存在価値