大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない

自分は何者なのか?自分は何がしたいのか?自分はどうありたいのか?


自己基盤というらしいのですが、私自身を含めこれがない人が多いと感じています。なぜだろうとここ最近思いを巡らせていて、一つの考えに思い至りました。


「人々は評価をされすぎている」


勉学もスポーツもとにかく評価が多い。学校に行けばテストや成績表で先生から評価され、スポーツをやれば勝った負けたで指導者から評価を受けます。ましてや課題や取り組むべき問題すら与えられるばかりで自発的なものは希少という現状です。評価をされるということはある正解があって、それに合致しているか、少なくとも近づいているかが問われることになります。こういったことに義務教育で9年、後期高等教育以降で更に3年~10年強にわたり晒されることになります。そして社会に出てからも多くの組織においてはそういう仕組みになっています。これだけ他者評価というものを軸に年数を過ごすと自己というものが減殺されていき、冒頭の問いに答えられなくなっていきます。

卵が先か鶏が先かは分かりませんが、自己と同じく失うものとして「内省」が挙げられます。他者の評価が内省よりも先にくると人は内省をしなくなります。内省をしない人は成長は難しいです。スポーツでも同じ問題があります。勝てば良し、負ければ悪という勝利至上主義自体は指導方針の問題なのでそこに正解も不正解もないとは思いますが、いちいちプレーごと、試合ごとに指導者が良い悪いを述べていたのでは子どもは内省するチャンスを失ってしまいます。

本来スポーツ、もっと言えば運動というものは「自分がこう動きたい」と思ったことに対して自発的にそれができたかどうかを振り返りながら洗練させていくものだと思いますが、振り返る機会をもらえずにプログラミングされていってしまう場面が多々あります。体験→内省→考察→試行というプロセスが分断されてしまっています。スポーツは良い教育コンテンツだと言うつもりはないですが、この行動サイクル-体験学習モデルがスポーツにおいてはとても良いテンポで行われます。ここまで早いサイクルで回るものはあまりないかと思いますが、スポーツでなくても内省や振り返りの機会とトライ&トライの機会をたくさん得られればきっと自己成長につながるものと考えます。

ある遊びのシーンでとある男の子からこんな発言がありました
「ちくしょう!明日は絶対勝ってやるからな!」

これこそが内省の始まりです。ここで大人がガヤガヤ言う必要は全くない。ストリートのスポーツもこれが基本でしょう。大人がやるべきことは内省の機会を守ってあげること。そうやって育った子どもはきっと学びを自走させることができます。その先にはきっと冒頭の問いに答えられる人材になっているはずです。


デカルトは言った。
「我思う 故に我あり」



コメント

このブログの人気の投稿

摩擦の不思議と地面反力を考える

誰のためなのその指導?

スポーツやアスリートの存在意義や存在価値