子は勝手に育つ

少し前に『子どもにフィジカルトレーニングは要らない』という記事を書きました。
では子どもの運動能力はどのように伸ばすのでしょうか。

wait a minute,,,

そもそも“伸ばす”のではなく、“伸びる”ようにするには という発想が必要です。
もっと言えば運動能力が“伸びない“要因を排除していくという発想でしょうか。

難しいですね。

心肺機能を養うためにインターバルトレーニングをして、、、
パワーをつけるために筋トレをして、、、
アジリティ能力の向上には切り替えしを練習して、、、
運動連鎖のためにはトリプルエクステンションを習得させて、、、

こんなものは大人がやるべき内容であって、それはそのまま子どもには当てはまらないのです。生理学的、バイオメカニクス的に子どもの運動能力向上にアプローチすることはナンセンスだと思いますし、そもそもそれで向上につながるとも思えません。更に言えば子どもの運動遊びを生理学的、バイオメカニクス的に説明することも不毛だと思います。

では、子どもには何が必要なのか?
これまでに何度も言及しているように、運動財なのだと思います。
運動財と書くと難しいですが、つまりは様々な運動体験による運動の経験値です。

運動能力が伸びる要素を具体的に挙げてみると、
1.見たことがあるという経験
2.やったことがあるという経験
3.没頭
の3つでしょうか。

そのために大人、親ができることは何でしょうか。1と2は割とできそうな気がしますね。でも、スポーツ観戦に連れて行く、習い事に連れて行く、はちょっと違います。もしかしたら3に繋がるかもしれないですが。
イギリスの諺にもあるように、『馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』のです。(“You can take a horse to the water, but you can't make him drink.”)

見る機会というのはどこにでも転がっています。でも“子どもの運動能力のため”にそう行動するのではなく、自然発生的でいいと思うのです。親が楽しそうにサッカー見てたり、公園に遊びに行ったら誰かが野球やってたり、そんなものです。それでやってみようかなって思ってやってみる。やってみたらできなかった。もう一回見てみる。またやってみる。できた、できない、、、その繰り返し。気がついたら没頭してる。

『好きこそモノの上手なれ』

結局はここに還るわけですね。
(参考:『競技動機としては没頭が最強かもしれない』)

で、没頭を放っておくというのがおそらく一番難しいのではないでしょうか。「楽しくテニスやってるから習わせてみようかな。」「そんなに好きなら絵の教室に通わせてみるか。」それは余計なお世話というもの。楽しむと上手くなるは結果的には因果関係にあっても、作為的に結びつくものではありません。楽しいは楽しいで完結。もし楽しみのポイントが上手くなるに移行したら、つまりは上手くならなきゃ楽しくないと感じるようになったら、そのための策を次に考えればいいのではないでしょうか。それがもしかしたらプロの指導者に頼むことかもしれないし、チームに入れることかもしれないし。

大人の関与は最小限に。
(参考:『あそびに大人はいらない』)

書いていたら書こうとしていたことと少し違った内容になりました。
書こうと思っていたことは、
『子どもに必要なのはトレーニングではなく多様な刺激』
でした。

が、これはこれで良しとします。



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