あそびに大人はいらない

昨今の遊びブームは大人が「子どもは遊んだ方が良い」と勝手に用意したもの。

でも遊びというのは本来誰かが用意するものではないのです。自発的に発生し、遊びはそれ自体が目的で、それ以上でもそれ以下でもない。そこに大人が入ることで遊びの空間は歪みます。

例えば、大人がサッカー遊びを用意したとしましょう。ゴールしたのかしてないのか、ファールかファールじゃないか、チーム分けで実力差が出た場合、そんなシーンになると決まって大人の方を見ます。

「今のはゴールですよね?」
「それはファールですよ!」
「そっちのチームの方が強いなぁ、、、」

そんな訴えになるわけです。
それで大人が裁き役になることとなります。

でも本来は子ども同士で解決すべき問題。納得いかないなら言い合えばいいし、喧嘩だってすればいいのです。それで言いたいことを言わないと損をすることを学ぶかもしれないし、相手を尊重することだってそこから得られることの一つになるでしょう。

ルールだって子どもたちだけで決めればいい。そうして「こうしたらもっと面白くなる」とか「どうしたら接戦になるか」とか発想力を刺激することになります。

今の子どもたちは自ら判断をする能力が乏しくなっていると言われています。逆に決められたことを実行する能力は上がっているような気がします(やらされる能力)。これは考えて実行するという機会が激減しているからに他ならないと思うのです。また、議論をすることもどんどん苦手になっているような気がします。言いたいことも言えずに飲み込む。平たく言えば巷でよく言われるコミュニケーション能力の低下ですよね。

あーだこーだ言いながらお互いの折り合い点を見つけたり、自分の主張をなんとしてでも通すというプレゼン力だったり、そういった能力は子どもたち同士のあそびの中で育まれていくと思うのです。以前「あそびの可能性」という記事を書きましたが、こんなところにもあそびの可能性というのは感じられます。

今のご時世ですからあそぶ環境を用意するのは大人の役目かもしれません。でも、ああしろ、こうしろというのをぐっとこらえて見守るのも大人の役目です。ただそこにある空気のような存在、そうなれたらもっと子どもが子どもらしくいられるのではないでしょうか。


コメント

このブログの人気の投稿

摩擦の不思議と地面反力を考える

誰のためなのその指導?

スポーツやアスリートの存在意義や存在価値