遊びは誰のもの?スポーツは誰のもの?

ここ最近、プロ野球の筒香選手が勝利至上主義からの脱却を提起している。
甲子園の球数制限然り、最近のジュニアスポーツにおける環境は大きな解決課題になっている。私個人の意見としては、勝利を目指すこと自体は悪いことではないと思っている。

問題は勝利を“目指させられる”ことである。言い換えれば勝利を目指さないといけない状況に置かれるということである。もっと言うと勝利のためならと選別のない手法が採られているのが現状だ。

果たして、子どもにとってのスポーツは、大人の持ち物になってしまったのだろうか。そしていつから大人が子どもの遊びを競技スポーツに変えてしまったのだろうか

スポーツの多くは元来遊戯からスタートしている。文字通り遊んで戯れることである。

とはいえ、遊びだってやる以上は勝ちたいというのが子どもの心理というものだろう。勝てば嬉しいし、負けたら悔しい。これはしごく当然のことである。「負けたら次はなんとかして勝ってやろう。」この気持ちが上達させてくれる。(逆に言うとこれがないと上達はしない)

では大人の役割は何だろう。ここでの私の考えは“子どもの自己実現の手助けをしてやること”である。単に楽しければそれでいいのか、何が何でも勝ちたいのか、どうしてもプロ選手になりたいのか、実現したい世界は十人十色だろう。大人は子どもよりも長く生きているし、いろんな経験もしている。だから子どもが分からないことも分かるし、実現したい事がらに対して助言やお手伝いができる。ここで注意しなければいけないのは実現したい事がらに向けて最短距離を選択することではなく、最適な手段を講じるということである。

子どもにだって自分がどうしたいのかを主張する権利はあるし、主張する必要もある。当然そこには責任も伴う。大人は子どもが何をしたいのかを汲み取ってやって必要な環境を整え、必要な手段を講じてほしい。教えたら簡単なことも敢えて教えない必要性はあるだろうし、長い目で見たら敢えて練習しすぎないことが大事かもしれない。またはこれでもかというぐらい詰め込む時期も必要かもしれない。大人の技量が問われるときである。

遊びなんだからお山の大将で良かったはずなのに、青田買いや大海に出させて現実世界を見せてしまうなどといった行為は大人の罪である。こう考えてみると、勝利至上主義という思想そのものが問題なのではなく、子どもの遊びに大人の我が儘が介入していることが問題で、しかも講じる手段が間違っているというのが更に問題を厄介にしている。この点は指導者の不勉強と言わざるを得ない。

最後に、冒頭の筒香選手の主張の元になっているものとして、ドミニカ共和国で過ごした時間、体験が大きいのだろうと推察する。私もドミニカ共和国の野球に触れたことはあるのだが、正直なところドミニカ共和国もメジャーリーグの手が及び過ぎてアメリカという経済大国に浸食されている(おそらくはサッカーにおける南米とヨーロッパの関係性も似たようなものだろう)。大人のビジネスの“資源”になってしまっている。彼ら自信にとっての野球はもはや生きる手段と同義になっている場合も多いのだが、どうか楽しんで野球をやるという環境だけは失わずにいてもらいたいものである。

こんなことを書いているうちに、またフィールド・オブ・ドリームスを観て、栗の樹ファームに行きたくなった。


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