評価と指示

評価と指示

どうもこの2つが人間の成長を阻害しているように思います。

勉学でもスポーツでも、大人(先生、指導者、親)の顔を見てやっている人をよく見ます。
なぜでしょう。

一つの考察として、自我が確立されるまでに受け取る評価の数の影響があると思います。勉強で言えば小学校で18回、中学校と高校でそれぞれ9回(3学期制の場合)で計27回の成績表を受け取ります。大学に行けばさらに8回。これだけ多くの評価を受け続けるとさすがに他人の評価を気にする人間形成がされていく可能性は高くなります。さらには、成績表=教師の評価であって、家に帰ればそれに対する親の評価も加わり、二重の評価を子どもは受けることになります。

スポーツでは少し毛色は違いますが、勝った負けた、またはテストに受かった落ちたというような評価を指導者または親から受けます。しかもその受ける評価はテストの点数や勝ち負け、あることができたかできなかったかで判断されることが多いです。悪いケースではワンプレーごとに指導者や親の顔を見てプレーするようになります。

こうしてたくさんの評価を人生の前半で、しかも自我/アイデンティティを持てていない時期に受け続けるとやはり自分の価値は他者が決めるものと認識しがちです。自分の行動や努力の軸となるものが他者の評価に依るものになってしまいます。

そして指示について。

これもまずは勉学について考えてみると、勉強すべき事柄は予め決まっていて、その決まったことがらを教わり、テストされることを繰り返していきます。つまり何を学ぶかは自分で決める必要がなく(その機会も与えられず)、さらに言えばどのようにしたら良い点数を得られるか、つまり先に述べた良い評価を得られるかを教えてくれる塾なるものも存在します。

スポーツでも同じで、技術や戦術を徹底的に叩き込まれ、それを試合や試験という評価場で発揮できたかどうかを試されます。言われたことをできたのかどうか、そういう軸を持つようになります。先の評価の話とくっつきますが、次にやるべきことは何か、指示/指導を待つことになります。個人スポーツ、チームスポーツで差異はあると思いますが、概ね同じことが起きているように見えます。

私の経験を2つほど紹介します。

一つ目はとある学童に行ったときの話。そこの学童では先生の話を聞けず、おやつを食べるときも座っていられない、勉強するときには寝転がってしまう、遊ぶ時間には他の子に手を出してしまうような子どもが複数いました。よく観察しているとそこの学童は子どもに求めることが多く、言ったとおりにできない場合にはすごい剣幕で叱るといったことが往々にして起きていました。つまりきちんと座れる子=良い子、話を聞ける子=良い子、ケンカしない子=良い子という“正解”があって不正解は悪い子という評価が下されていました。

私がその学童を担当する日は細かいことは全部抜きにして、できるだけ自由意志を尊重する時間としました。結果として先の問題はあまり起こらず、人への配慮も見られ、とても平和な日になることが多かったです。これは私の中でも非常に大きな発見であり、知見となりました。

もう一つはスポーツでの事例。練習でも試合でも、いつもワンプレーごとに親の顔を見ている子がいました。いいプレーをしたらその親はにっこりうなずき、悪いプレーをしたら怖い顔をして首を振ります。点を取っても親の意図と違う場合には曇った顔をしています。いちいち親の顔を見ていることがとても気になり、親が見ていない場面を作って「今日は自由にプレーしていいよ」とだけ伝えました。その時の生き生きとしたプレーが忘れられません。普段練習では見せないようなプレーも見られました。失敗しても誰も咎める人はいません。結果として試合は負けましたが、とても清々しい顔をしていたことが印象的でした。

社会人でも指示待ちと評価におびえる仕事ぶりの人が多いことが非常に気になります。容易に想像できると思いますが、得てしてそういう場合のパフォーマンスは低いです。総じてそういった人の社会人人生は豊かでなくなってしまうのではと心配になってしまいます。現時点ではまだ仮説ですが、学生の間に評価と指示をたくさん浴びてきた人はそういう傾向にあるのではと考えています。

今私にできることとして、児童期に評価と指示を気にしなくていい環境を作ることに勤しんでいますが、そこで育った子どもたちが、その後の人生においてどのように自分の力を発揮していくのかがとても楽しみです。

大事なのは自己の意志と承認。



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