あそびの大切さの再考
“子どもの目標は、できるだけ早く大人になることではない。子ども時代を十分に生きることである”
スイスの心理学者、ジャン・ピアジェ氏の言葉です。
最近“あそび”について再考、再読しているところ、この言葉と再会しました。時を同じくして目に留まった以下の記事。
「週3日の塾通いに子どもが「ぼくの時間は戻ってこない」と涙の訴え なぜ日本の小中学生は塾に通うのか 親心のゆくえ」
“先取り”とは何を“先取って”いるのでしょうか。メリット/デメリット云々よりも先んじて取得するべきことが果たしてあるのかどうかという本質を問いたいところではあるが、まずは一旦立ち止まって先取り教育の必要性や意義を考えてみます。
学力は中学またはそれ以降で追いつくということが言われていますし、学歴と幸福度は比例しないとも言われています。強いて言うなら学歴と年収はある程度の相関があると認められているようですが、それだって今時点の話であって、今後は現在で言う学歴という考え方が崩れていく可能性は大いにありますし、年収もある一定の額を超えたら幸福度は相関を持たなくなるということも分かってきています。
本質の方に話を戻します。ピアジェは4つある発達段階の3つ目(具体的操作期)を11歳までと位置付けていますが、ここでは学童期として考えてみます。これは大いに私的な経験則も含まれますが、他者(教師その他の大人)による知識の教授よりも大切なことがあると感じています。例を一つ挙げるならば自己の意思決定とそれに伴う行動、それによって起きたことがらの認知と考察、そして次の意思決定と行動、、、というようなサイクルを繰り返すこと。
心理学分野ではこういったことを自我の事物への吸収という言い方もするようですが、自己中心性の欲求が根源にある気がします。押し売りのような論調となることを承知の上で言いますが、やはりそういったことの獲得の源は“あそび”にあると信じています。
“あそび”についてはこれまでも本ブログで言及してきましたが、懸念しているのは“あそび”が含有するものの軽視または誤認識です。同時に子どもという存在の軽視または誤認識も警笛を鳴らしたいのです。
昨今ではどうも“あそび”を手段としてある目的へ向かわせたり、“あそび”に教育的価値を求めたりしていて、それはやはり“あそび”の誤認識だと言わざるを得ません。本来“あそび”は目的を持たず、欲求や意思の体現そのものであって、それ以上でもそれ以下でもないものです。“あそび”こそが自己中心性の欲求による行動なのではないでしょうか。自己中心性と言うと協働の欠如といった意味合いも感じられるかもしれませんが、それもこの段階で経験しておくことの一つでしょう。自己中心性を十分に感じて生きておくことがこの時期の重要な過ごし方であると信じています。(他者との関わり合い方も“あそび”を通じて獲得されていきます)
“あそび”を通じた経験則や試行錯誤を経ずに、形だけの知識の教授、つまりピアジェの発達段階で言う第4の形式的操作期に突入することは極めて危険だと感じますし、大胆な言い方をすれば社会悪のようにも考えられます。自己中心性を感じずに育ち社会に出ると、物事の責任を他者へ転嫁したり、自分事として捉えられなくなったりする危険を孕んでいると思います。
先に紹介した“もっと遊びたかったと泣いた子”の記事は一つの事例かもしれませんが、何か大きなものを欠いたまま大人になることがないように、学童期をどこで、誰と、どのように過ごすかということの重要性を今一度考えてみましょう。
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