学校について思うこと
教育や学校の在り方について発言する機会が増えてきたので、ここで自分の思考の整理も兼ねて文字にしておく。
① 知識集積型の教育について
知識をただ覚えて吐き出すだけのテストは意味を持たないし、そのための授業も意味を持たない。AIの知能指数は100を越えているし、そもそも知識を引っ張り出すだけならインターネットを使えば十分。事実として中学生の娘の勉強では30年ぶりに聞くものがたくさん出てくる。藤原京とは何で何年に作られたとか、円錐の表面積の求め方とか、、、それらの事項は私の記憶では中1以降、少なくとも高校受験以来使った記憶はない。つまりそれは記憶を試すテストのための授業であって、それが終われば何の役にも立っていないことを意味する。ちなみに先に述べた通りネットを使えば5秒以内で検索ができて1分あればそれらの質問には答えられた。記憶力という能力も必要なときは当然あるが、他の集積システムに頼れる部分は頼った方が良い。それによって余った時間と脳細胞は思考に使おう。
② 授業の在り方について
昨今では教員不足が騒がれているが①の教育においてはそもそも教員の必要がなくなってきた。知識は本やネットにあるし、それをわざわざ教壇から黒板を使って教授される必要もない。もし必要であったとしても、1度の授業を録画しておけば繰り返し見られるし、1組でも2組でも10組でも同じ授業をオウムのように繰り返す必要がないことはコロナ禍で証明された。そんなことは30年以上も前の1991年に東進ハイスクールが始めている。
③ 学習ペースの個別性について
今の義務教育、そして高等教育までを含めた12年間の学習指導要領は云わば生きていくためというよりも、受験を通り抜けるために必要な“知識”を12分割して1年ごとの学習量が決められている。そこに個別性はなく、学ぶペースも一律である。本当は学ぶペースも異なるし、学ぶべき知識量も個々で異なるのが普通だろう。学習能力が高く先の学習ができる子どもも、学習が遅い子も同じ学年同じクラスで授業を受けているのが現況。オランダなどでは3年のプラスマイナスを見込んでカリキュラムを作っている例もあるが、少なくともそれぐらいは学習ペースに個別性があってもよいのではないだろうか。そもそも、義務教育の9年間と高等教育の3年間を足した12年間で学習する内容は後段に譲るとして、その量を踏襲するのに12年間もいらないのではないだろうか。実は1/4や1/5の時間で済むという話や、無理やり12年間分に引き伸ばしているという話も聞こえてくるが、わざわざ薄く延ばして時間を無駄にすることもない。
④ カリキュラムについて
そもそも今のカリキュラムや学習指導要領は多少の改変はあるものの、概ね戦前のそれから変わってはいない。軍事国日本において、兵隊を作るのに右向け右と言えば右を向く国民を作る軍事教育からスタートしたものが100年経った今でも残っている。戦争が終わっても復興期においてモノづくりを中心とした高度経済成長を進めるには、同じく指示通りに働く社会人が必要だったことから戦前の軍事教育がそのまま踏襲された。しかし現代においてはその限りではなく、個々の創造性や独創性がモノを言う。言われたことだけやる時代は終わった。自分がどうありたいのかというbeingが問われる今とこれからにおいて、①に書いた通り決められた知識を覚えるだけの教育や、学ぶことが万人共通で定められた教育はもう終わりのはず。今とこれから求められるのは自分の意志に基づいて思考と行動を繰り返して学んでいく人材だ。
⑤ チャイムについて
今の学校のシステムではチャイムというものがあって、皆パブロフの犬のようにチャイムで行動が起こったり止まったりする。例えば朝8:30にチャイムが鳴れば興味があるかないかに関わらず算数という授業が始まり、次のチャイムで終わる。仮にどんなに算数に熱中していても、だ。そして5分の休憩をはさんで次のチャイムで国語が始まる。たとえ興味がなくても、だ。興味が無かった子が例えば感じにのめりこんできたとしても次のチャイムでその熱中は分断される。次はまた興味のない理科の始まりだ。学びの時間をチャイムで支配される。そこに意志決定はない。こんなバカげたことがあるだろうか。それぞれの興味の分野も違ければ熱中の具合も違うし、必要な時間だって違うはずだ。
⑥ 習い事について
先のチャイムの話の続きになるが、今の子の放課後は習い事のオンパレードだ。共働き世代で子どもを大人が見守ってくれているいわゆる保育の場が必要なのだろうが、それはまた別問題として、チャイム管理の続きが放課後にも展開される。何時になったら英語に行け、スイミングに行け、終わったらまっすぐ帰ってこい。繰り返すがそこに意志決定はない。前述した大人がいる環境を求めている場合にはそれが週5~7で繰り返される。こうなってくると学校と習い事の境界線はどこにあるのかすら分からなくなってくる。学校内でそれをやったらいいではないか、もしくは学校に行かずに朝から習い事に行けばいいではないか。起きていることは意志決定無き時間の延長で、学校教育の補填にはなっていない。学校教育がこれまで述べた問題を持っているとすれば、そうではない場にしていくのが放課後系事業の役割ではないか。
⑦ 受験について
順位や優劣をつけること自体は悪いとは思わない。が、そのつけかたが問題だ。知識をどれだけ蓄えたか。そしてそれをどれだけ自力で出せるか。そういう測り方に意味はない。最近では思考力を問う受験も増えてきてはいるが、論理的思考ですらAIでできる時代だ。それらを偏差値という一つの物差しで測り、優劣を決め、それをもとに行先が決まる人生、これは問題ではなかろうか。少し観点を変えてみればテクノロジーの活用ができる人材として、知識をたくさん記憶している人よりもインターネットを使って知識をすぐに引っ張り出すことのできる人の方が優秀なのではないか、、、。事実として、偏差値や学歴と社会人としての仕事の成果は比例しない(仕事を何で測るかにもよるが)。
⑧ 自己表現について
ではなぜゆえに意志決定ができないのか。それは型からはみ出ることを良しとしない文化があるからだ(これは日本に限らない)。学習性無力感の研究を行なったマーティン・セリグマンの犬よろしく、自己の意思を否定されたり却下されたりし続けると、意思を持たなくなったり表現しなくなったりする。サドベリーバレースクールの創設者グリーンバーグ曰く、取り除くべく最優先事項は根底にある恐怖だという。最近の言葉で言えば心理的安全性の担保だ。意志決定とそれによる行動をしても良い環境、まずはこれこそが学びと成長には欠かせない。
⑨ 人間が人間たる所以はなにか
デカルトは言った(らしい)。Cogito, ergo sum.(我思う、ゆえに我あり) チャイムにより自分の行動を制限されて、興味のあるなしに関わらず多くの知識を教示される。それはつまり学ぶことすら決められた時間と範囲で制限されることを意味する。そこに考えはない。結果として自分の興味は何で、どのような時間的計画で学び、どのように振り返り、どのように生かすのかといったところは今の学校では求められず、ただ言われたことを言われた時間内で覚えて、覚えたかどうかを試される。それを義務教育では9年間、高等教育まで入れればさらに3年足して12年、大学まで入れればさらに4年で16年繰り返される。指示待ち社員の出来上がりだ。23で社会に放り出されて自分でクリエイティブに仕事をしろというのは無理がある。(一方であれやれこれやれ、納期はいつだと言われることに嫌気がさしている若者もいるのも事実なのでこれがまた不思議なところではあるのだが。)話は戻って、今述べたことが人間らしい活動だとはとても思えない。知能を多く携えた人間ならば思考ということに脳を活用されたし。
ここまでずらずらと問題点を列挙してみたが、それならば子どもたちにはどういう形の時間と場所、つまり環境が必要なのか。私が考えるそれは、意思(意志)を持ち、発信し、行動・実行し、振り返りを行ない、それらを繰り返し、実現をしていくことができる環境である。今の世の中では自分の行動、ひいては生き方を他人に委ねている人が多いように感じる。意志決定と実行と振り返りのない教育の結果だ。「遊び」の定義は多くの研究者や哲学者により多岐にわたって提唱されてきたが、概ね言えることは自己の自由意思に基づく行動によって自己の心を満たすことと言えるのではないだろうか。子どもに自由な時間と空間、つまり環境を与えるとそういう活動が本当に顕著に見られる(一部、前述の教育社会問題に侵された子どもは自由を与えられると困る)。これは経験学習モデルの最たるものである。意志決定による自分の行動とその結果によってまた次の行動を決定する。こうして人は成長する。よって私の考える教育とは経験学習を体験値として積み重ねて自分の物にしていくプロセスである。私自身のライフワークとしてそういう場(すなわち此れを学校という)を作っていきたいし、そういう場とそこで育った人を後世に残していきたいと思う。
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