ウエイトトレーニングをしっかりと考える

かなりご無沙汰してしまいました。
正直に言うとネタに困ってました。

今回はウエイトトレーニングについて書こうと思います。(私自身の動きはまだまだ改善の余地が多々あると自覚した上で書きます)
ダルビッシュの発言で注目されたりもしましたがいろいろ議論の多いこのウエイトトレーニング。一般的には筋力を上げるだとか筋肥大を目指すといったことを目的として取り入れられることが多いですかね。当然それはそれでいいのですが今日はちょっと違った視点から。

結論から言うと、ウエイトトレーニングは『動きの深さ』を出すためのツールとして大変利用価値が高いと考えています。ここで言う『動きの深さ』というのは単に可動域云々のことだけに留まらないことを今から説明します。(もちろん可動域を出すためのツールとしても大変有効です)




力を単純に地点Aから地点Bまで動かすというのは力さえあればその様式はどうであれ、叶うことです。しかしながら、運動能力または運動技術向上ということを目指すのであればそれだけではダメだということです。

例えば、、、
・力を入れ始めるタイミング、力を抜くタイミングはどうあるべきか
・地点Aから地点Bを経由して地点Aに戻るまでの間の出力の調整は行なえるか
・動きの支点をどこに置き、レバーの長さをどのぐらいに設定して、どの様に梃子を使うのか
・力のベクトルはどうあるべきか
・筋、腱の弾性を活用するにはどうすべきか
・自分の体のパーツの外にある自分の体のパーツ以外の重さを自分の動きに引き込めるか

こういったことを踏まえて行なうと、内部感覚を研ぎ澄ますことが出来ると思います。トレーナーとして、コンディショニングコーチとして、ウエイトトレーニングを愛用していると重り至上主義だとか筋肥大至上主義に思われがちですが、上記のようなことが訓練されていく中で扱える重量や、筋肉の量が増していくというのはこれは結果として起こるだけです。

それと、どうも最近のトレーニング関連分野では“ファンクショナルトレーニング”と銘打って多種多様なトレーニング方法が世に蔓延っている気がします。まぁそのファンクショナルトレーニングとやら自体は悪いものではないのでしょうけども、なんとなく基本の動作が行なえていないのにそういった複合動作を行なっているように見えてしまうのです。そもそも、これはこの世界に足を踏み入れる時に私の上司に言われて今でも印象深い言葉として残っているのですが、『ファンクショナルでなければトレーニングではない』わけで、ファンクショナルトレーニングという呼称を用いなくてもすべてのトレーニングはファンクショナルであるべきかなと。
で、ウエイト場で養われた感覚や筋力を生かしてグランドレベルで少しずつ競技に動作を近づけていく作業をするのが本来あるべきトレーニング経過かなと。

話を戻しますと、上記の様な感覚を養っていくだけで特別競技動作に特化した指導を行なわなくても(もちろん行なえた方がより良いのだけども)、競技能力というのは向上すると思うのです。自分を例に出しますと、競技者として真面目に野球をやっていたのは18歳までですが、そこから14年経った今、殆どボールを投げることもないのに球速や遠投能力は当時よりも上がってい(ると思い)ます。その間、このトピックのようなことをなんとな~く考えながらトレーニングを行なった期間は6年のみですが。これは自分でも驚きなのです。

というわけで、ウエイトトレーニングに対する考え方や理解が少しでも深まってもらえたら幸いです。


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