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運動を訓練するということ

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私が体力トレーニングを行う際の観点というか目的。 『適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す』 シンプルにこれだけです。 どのスポーツのどの場面でも、身体動作を伴う場合にはこれがすべてだと(現段階では)考えています。関節角度が、、、とか、体幹が、、、とかは、あくまでも前述の目的を達成するための手段(条件)です。そこばかりを気にして、手段ありきにならないように気を付けています。尚、ここで言う“力(=チカラ)”とは、筋力でも、筋出力でもなく、単純に何かに作用するためのチカラです。ドイツ語のkraftの意味合いがこれにあたるでしょうか。 ウエイトトレーニングのようなシンプルな動きでも、技術トレーニングのような複雑な動きでも、「適切なタイミングで、適切な方向に、適切な力を出す」ということを追い求めます。個人的にはウエイトトレーニングもそのためのトレーニング手段だという認識で処方していますが、特に最初の2つ(タイミングと方向)が大事です。力をつけていくのはそんなに難しくはないので、まずはその2つにフォーカスするべきでしょう。逆に言えばその2つが未熟であれば、力を増していくトレーニングは避けるべきです。 タイミング、方向、力、この3つを成し遂げる手段として先に述べたように関節角度とか、予備緊張(張力)とか、はたまた動作の先取りとか、うまくいったときの感覚とか、そういったことを取り揃えていく(条件を整えていく)ことがトレーニングであり、それらを統合(呼応)する能力がコオーディネーション能力と言われるものになろうかと思います。そしてそれを養うことが、タイトルにある通り“運動を訓練するということ”だと私は考えます。 動作ありきの動作、動作ありきのトレーニングにだけはならないよう、気をつけたいものです。自戒の念と、指導者、選手への喚起として。

子は手を借りて更に熟す

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「発達の最近接領域」の理論(レフ・ヴィゴツキー著)を読みました。 発達の最近接領域、、、難しい言葉ですね。 英語ではZone of Proximal Development。 簡単に言うと「一人ではできないが誰かの手助けによってできるようになる伸びしろ」といった感じになるでしょうか。 私はこれまでJJ・ルソー氏の消極教育に代表されるように、「子は自ら育つ」という考えで、放任こそが子どもの本当の成長に繋がると思っていました。タイトルも、これまで私の考えを記した本ブログを読まれてきた方は、違和感を感じたかもしれません。それだけに今回の「一人ではできないが誰かの手助けによってできるようになる」という観点と論理は新たな発見でした。 今思い返せば昨年ライプチヒに行った際に、帰納法と演繹法の話の中で、“演繹的帰納法”という言葉を耳にしておりました。なるほど、そういうことかと、今回の書籍の読了に伴い、理解が深まった感じがします。学習における偏差を認めた上で(偏差的学習)、先人の手助けがあるとより学習の効果が高まるということですね。当然手助けのしすぎは問題になりますが。 模倣という観点も大事で、自分より優れた何かを見ておくことは学習においてとても効果的だと思います。百聞は一見にしかずという言葉もありますが、見たらそのようにやってみようと真似をするものです。私はどのレベルにおいても全力で見本を“見せつける”ことにしています。それすらも、一つの“手助け”になり得るからです。 「未知のなにか」を見せ、体験させ、成長可能性を刺激し全うする。それにより、未到達のレベルに導く。ヴィゴツキー氏は「熟しつつある何か」を察知することが重要だと述べています。今その子が出来ることはどの程度で、どんな手助けをしたらどの様にどの程度まで熟していくのかということを見定め、適切な手助けを施す。これこそが特にジュニア期に携わる指導者の役割だと思います。 「今日子どもが協力の下で遂行できることは、明日になると独力で行なえるようになる」 そんな“明日”を子どもたちに迎えてもらいたいなと思う本日でした。

経験と教育 そして大人の役割

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アメリカの哲学者・教育思想家のジョン・デューイ氏の『経験と教育』を読みました。 2回読んだものの、解釈はとても難しかったです。ただ、私なりにシンプルにまとめると ・子どもの成長には多彩な経験が必要である ・大人の役割は経験を積むことができる環境を用意すること といったような感じです。 教育思想家として一方的な知識の享受を目的とした伝統的な教育方法に警笛を鳴らしていた部分に関しては大いに共感しました。でもより感銘を受けたのは“経験の連続性”という原理です。 “先行する経験は後続する経験の質に影響を与えざるを得ない”という考え方はしごく真っ当であり、当たり前のようですが、とても重要な概念を孕んでいると感じました。 以前より私がこのブログで主張してる運動財に関しても同じことが言えると思います。たくさん遊んで、たくさん成功したり失敗したりして運動の経験を積んでいくと、その経験がやがて地となり肉となり運動感覚(コツやカンを含む)が養われていきます。 「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」というあの名言にも通ずるものがありますね。心理面や人間形成においても同じ原理が適用されるのだと思います。 しかし、ここで私が言いたいことは何も運動やスポーツに限ったことではありません。 生きるチカラを養っていくのに、やはり経験というのは何にも替え難いものになるのだということです。 冒頭のデューイ氏の別の著書「民主主義と教育」には以下の様に記されています。 ・大人が子どもに文化を伝達し、子どもを社会の一員とする ・子どもに新しい文化を創造する能力を身につけさせる(成長する能力) ・変動する環境に適応できる力を教育によって育てる なるほどと首肯かざるを得ないほど見事に正鵠を射ていると感じます。 同著にはまた以下の様にあります。 「教育とは、経験の意味を増加させ、その後の進路を方向付ける能力を高めるように経験を改造あるいは再組織することである」 これがいわゆる大人の役割なのでしょう。教育者や指導者だけでなく、親も含まれ、ひいては子どもを持たずともすべての人間が後世の種に何かを伝える際にはこの観点が必要になろうかと思います。冒頭の私の解釈に戻りますが、子どもが多彩な経験を積...

遊びは自己実現

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自分たちで遊びを実行できない場面をよく目にします。 「ドッヂボールがしたい。」 しかしなかなか実現できません。大人なら何とかしてくれるだろう、、、と大抵は大人を頼って懇願してきます。 ドッヂボールをやるにはいろいろなものが必要です。仲間、ボール、コート、ルール、、、これらをまずは用意しなければなりません。 仲間を集うのにはコミュニケーション力や交渉力がいるし、どこにあるどんなボールを使うのか、コートはどれぐらいの大きさでどうやって仕切りを設けるのか、ルールをどのように設定するか、、、いろいろなことを決めて実行していかなくてはなりません。そしてその遊びを知らない人、興味ない人を惹きつけるプレゼン力。 この時点で、何かしら欠如していると「もうドッヂボールやらなくてもいいや」となってしまいます。傍から見ている私は、ドッジボールがやりたい情熱はそんなものか、、、といった感想を持つことになります。その結果、本当はやりたくない他者の遊びに付き合うことになります。でも自分がやりたいドッヂボールを実現できなかったのだから仕方ないのです。 遊びとは自己実現なり。 自分がやりたいと思ったことを実行するにはそれなりのエネルギーが必要です。しかし人生というのはその連続です。“遊び”は子どもの欲求ランキングでは1位、2位でしょう。まずは遊びの実現によって、その欲求を満たすという訓練と経験を積んでいってもらえたらいいなと思います。それが生きるチカラを養うことにつながると思うのです。

育成は十人十色

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ちょっと育成について考える機会があったので、それについて書きます。 同じ運動は二度と起こらない という意味合いのことはこれまで何度も述べていますが、育成方法に関しても同じです。巷には様々な育成方法や子育て論などの情報がたくさん見られるようになりました。しかし料理と違って生身の人間ですから、レシピ通りにやっても同じようにはいかないというのは周知の事実です。(おそらくはプロの料理人してみたら同じ味は二度と作れないと言うでしょう) にも関わらずあたかも一つの成功例が唯一絶対的な正解で、普遍的な理論のように流布してしまっています。そして子どもの運動指導に関わる人間、または親がそれを踏襲して実践しています。“2人として同じ人間は存在しない”のにです。 これは私の推測ですが、一卵性双生児に対してまったく同じアプローチで育成をしても、同じパフォーマンスを持つ選手にはならないでしょう。とは言っても完全に個別化して育成プログラムを組むなどというのは現実的ではありません。 ではどうするか。 集団の年齢、特徴、能力などを把握したうえで、最大公約数的にアプローチするというのが、出来得る中ではベターな方法と言えるでしょう。学校教育などがこれに当たるでしょうか。個を重視するといっても、どうしたって子どもを個で育てることはできません。 それぞれの年代において大切なことを、適切な順番で適切な量をこなしていけばそれなりには育つと思います。その中で必要に応じて個の対応をすればいい。そういった判断ができる大人が増えて欲しいものです。冒頭の料理の例で言えば、肉じゃがを作るにはまず野菜を切ること、肉を炒めること、醤油や味醂を使って味付けをすること、そういう行程の理解がまず先決です。正確でなくてもいいのです。そういうことをある程度の振れ幅の中で出来ていれば、そんなに変な味にはならないと思います。その上で個の対応、つまり好みに応じた味付けが意味を成すのです。塩気が足らなければ足せばいいし、火が通ってなかったらもう少し火にかければいい。育成と料理のどちらのケースにしても、大事なのはどういう人間、どういう味にしたいかということを考え、必要なことを行なっていくということ。 思い通りにいかない、理論通りに事は運ばない、そういうことを認識した上で、あまり細かいことは気にせずに、まずはざっくり適...

教えず、自己を実現する

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天外伺朗氏の『「生きる力」の強い子を育てる』という著書を読みました。 当面の間、私自身のライフワークとなりそうなテーマです。 その本の中で、サドベリー・バレー・スクールの紹介がありました。アメリカのマサチューセッツ州で誕生した学校で、子どもを信頼し、絶対的な自由と責任を与え、自己を実現する力を養うことで知られます。スクール(=学校)とは言ってもカリキュラムは存在せず、科目や時間などの制限も全くなく、やりたいことは自分で決めるというスタンスのようです。知りたいことがあれば自分で授業を企画し、教師に請うということです。例えば、本を読みたいから文字や文法を教えてほしいとか、車を作りたいから物理を教えて欲しいとかいった具合でしょうか。 教えることもなければ、評価されることもない。すべては内発的動機付けに基づく。 究極の消極教育ですね。 これをスポーツという分野で考えてみるとどうでしょう。 スポーツの根源の遊戯から始まり、勝負欲へとつながる。その中でより良いパフォーマンスを出したいと思うようになる。まずは上手く出来ている年上をお手本にする。それでもできないことがあると自覚する。そこで初めて先人の助けを乞う。 ホームランを打ちたいのですが、どうしたらいいですか? サーブをもっと速く打つにはどうしたらいいですか? 相撲でA君に勝つにはどうしたらいいですか? バック宙をしたいのですが、何をやればいいですか? もちろん、それまでにも試行錯誤は繰り返されているでしょうが、どこかでこのような壁にぶつかるでしょう。自分一人ではにっちもさっちもいかなくなったときに初めて教えを乞う。自分が実現したいことを手伝ってもらうわけです。 教えないスポーツクラブ。 サドベリー・スポーツクラブ?そんなようなものが存在しても面白そうだなと、冒頭の著書を読みながら思いを馳せておりました。 自己実現、スポーツに限らず、これは人生のどの場面でも必要な力になることでしょう。  

子どもは小さな大人ではない

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“子どもは小さな大人ではない“ 何度かこのブログにも登場しているJ・J・ルソーの言葉です。 この言葉を思い浮かべる機会が増えています。 先日、少年野球の野球少年たちが守備用手袋を着用していると聞きました。なぜだろう、、、。本当に必要なのでしょうか。(打撃用だって私は高校卒業まで着けなかった)。手の保護と言っても小学生が投げる球なんて100km/hそこそこで、しかも軟式ボールです。グローブの中で滑ると言ってもそんな繊細な感覚でグローブを扱っているのでしょうか。 おそらくは 「プロ野球選手がつけているから」 というのが主な理由でしょう。 これと似た現象がジュニアのスポーツでしばしば見られます。 その一つがフィジカルトレーニングです。 大人がやるようなトレーニングやウォーミングアップを子どもに処方している指導者は少なくありません。先日職場で行われた全国大会でもその光景を目の当たりにしました。それがその子どもにとって、その年代に、その時期に必要なことなのかどうかというのは今一度考えてもらいたいと思います。 フィジカルだけでなく、同じことはtechnique、tactics、mentalの各要素においても見られます。例えばテクニックに関して言えば、プロ野球選手のフォームをスローで見せながら真似をする。例えば戦術に関して、進塁打を強制する。例えばメンタルに関して、プロと同じようなストイックさを求める。これらはほんの一例で、氷山の一角に過ぎないことはジュニアに携わっている指導者であれば心当たりがあることだと思います。 「大人がやっているから」という理由でそれを子どもに適用してしまうのはあまりに理不尽であり危険も孕んでいると思います。もっと言えば“科学的に証明された”という謳い文句も多くは大人においてそういう結果だったということが多く、それをそのまま子どもに適用はできません。 話しは戻って、フィジカルトレーニングの子どもへの適用に関しては、フィジカルトレーニング偏重の風潮も手伝っていると思います。フィジカルトレーニングというものが存在しなかった時代と比べて、フィジカルトレーニングの重要性が(誤った形で)認識され、パフォーマンス向上にはフィジカルトレーニングが必要だという固定概念が広まりました。ある程度パフォーマンス構造が出来上がった選手にはもちろ...