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不登校について

子どもの数は減っているのに不登校の数は増えている。1990年では7万人に満たなかった不登校児は34年で34万人まで増えた。コロナの影響かどうかは定かではないが近年は年間で4~5万人の増加と指数関数的な増加に近づいている。そして不登校の児童の行き場としてフリースクールの数も増えている。同じスパンで見てみれば30に満たなかったフリースクールの数は800ほどにまで増えたと言われている。30年前は学校に行くのは当然で、不登校はけしからんという風潮があったものの、最近では先に述べた現在の義務教育の意義的なものと相まって、右へ倣えの文化の強い日本の国民性を考えればますます“不登校”というのが市民権を獲得していくのは請け合いである。 しかし、ここで考えたいのは、フリースクールと通常の学校の逆転現象はもう少し先の話だとしてもその方向へ事態が向かっていることは明らかであり、そこからなにが起こるかと考えると、フリースクールでも不登校が起こり得るということ。コミュニケーションのありかたや、時間の使い方がすっかり変わってしまった現代においては、マイノリティがマジョリティになったときに、その中からまたマイノリティが生まれるだろうことは想像に難くない。皆と一緒が嫌で、嫌なことに取り組むのが嫌でフリースクールに行ったにも関わらず、結局そこに皆が集まり、同じ現象が起きる。そしてその場が嫌になり他を探す。この繰り返しになってしまうのではないだろうか。そうなった場合に、フリースクールの質が問われることになる。先に述べたように子どもの数は減っているのにフリースクールが増えているということは、フリースクールの乱立によってパイの取り合い、つまり淘汰が起きてくるということ。不登校の子が行く場所も選ぶ時代になる。そんなやどかり状態で人は育つのかと問いたくもなるが、こればっかりはどうなるかは分からない。だからこそきちんと方針をもって、信念と情熱ももって、子どもの居場所と教育のありかたについては大人がしっかりと考えていかなければならない。 フリースクールのフリーが何を意味するフリーなのかについては詳しくないが、教育のありかたについては先に述べた通り、ありたい姿や状態へ向かって行動すること、それに必要な知識と知恵を蓄えること、それによって自己と社会において実現を目指すことが必要である。意志決定がない現在の学校教育と真...

学校について思うこと

教育や学校の在り方について発言する機会が増えてきたので、ここで自分の思考の整理も兼ねて文字にしておく。 ① 知識集積型の教育について 知識をただ覚えて吐き出すだけのテストは意味を持たないし、そのための授業も意味を持たない。AIの知能指数は100を越えているし、そもそも知識を引っ張り出すだけならインターネットを使えば十分。事実として中学生の娘の勉強では30年ぶりに聞くものがたくさん出てくる。藤原京とは何で何年に作られたとか、円錐の表面積の求め方とか、、、それらの事項は私の記憶では中1以降、少なくとも高校受験以来使った記憶はない。つまりそれは記憶を試すテストのための授業であって、それが終われば何の役にも立っていないことを意味する。ちなみに先に述べた通りネットを使えば5秒以内で検索ができて1分あればそれらの質問には答えられた。記憶力という能力も必要なときは当然あるが、他の集積システムに頼れる部分は頼った方が良い。それによって余った時間と脳細胞は思考に使おう。 ② 授業の在り方について 昨今では教員不足が騒がれているが①の教育においてはそもそも教員の必要がなくなってきた。知識は本やネットにあるし、それをわざわざ教壇から黒板を使って教授される必要もない。もし必要であったとしても、1度の授業を録画しておけば繰り返し見られるし、1組でも2組でも10組でも同じ授業をオウムのように繰り返す必要がないことはコロナ禍で証明された。そんなことは30年以上も前の1991年に東進ハイスクールが始めている。 ③ 学習ペースの個別性について 今の義務教育、そして高等教育までを含めた12年間の学習指導要領は云わば生きていくためというよりも、受験を通り抜けるために必要な“知識”を12分割して1年ごとの学習量が決められている。そこに個別性はなく、学ぶペースも一律である。本当は学ぶペースも異なるし、学ぶべき知識量も個々で異なるのが普通だろう。学習能力が高く先の学習ができる子どもも、学習が遅い子も同じ学年同じクラスで授業を受けているのが現況。オランダなどでは3年のプラスマイナスを見込んでカリキュラムを作っている例もあるが、少なくともそれぐらいは学習ペースに個別性があってもよいのではないだろうか。そもそも、義務教育の9年間と高等教育の3年間を足した12年間で学習する内容は後段に譲るとして、その量を...

ゲームは能動的行為?

正確なデータは拾えませんでしたが、私が子どものときと比べて子どもの(子どもに限った話ではないのだが、ここでは子どもについて)時間の使い方は著しく変わりました。外遊びの時間は減り、ゲーム(テレビゲーム、ビデオゲーム、モバイルゲーム、オンラインゲーム等)やテレビ、動画視聴に費やす時間が激増しています。今回はその中でも激増した液晶に向かう時間について考えてみます。 まずゲームについて。ゲームばかりしていることを心配する大人は多い。しかし実はそこまでの悪ではないのかなとも思い筆を執りました。子どもがゲームをしている様子を見ていると、そこには成功体験と失敗体験があります。成功体験の時はリアルと同じように高揚感を味わい、失敗体験の時には悔しさや失望感を味わっているようです。そして成功体験の後には再現性を求め、失敗体験の後には改善を試みているように思えます。 これはリアルの世界、とりわけスポーツと似ているのではないでしょうか。特に失敗の後には次はこうかなああかなと試行錯誤をしていますし、初めてのステージや敵と対峙するときには様々な情報を収集しながら進めていきます。クリアできなかったり敵に負けたりしたときの悔しい感情もスポーツのそれと似ている気もしてきます。 こう考えてみるとゲームに熱中するのもあながち悪いことばかりではないのかなと思います。後に述べるテレビやウェブ動画視聴と比べたら能動的な時間の使い方と言えるのではないでしょうか。(一応言及しておくと、失敗しても何度も簡単にやり直せるところや、視野の範囲と距離が一定なのはリアルと違うところなので、リアル体験と比べるとやはり劣る部分はあることは事実です。) 一方でテレビやウェブ上の動画視聴はどうでしょう。テレビは流れている情報がただ単に入ってくるだけですね。コンテンツや時間が定められているので、ウェブの動画視聴よりは受動性が高い一方、情報の範囲は広く、自分の興味外の情報やアンテナを張っていない範囲の情報も入ってきます。ウェブ動画視聴は自分の興味分野を狙って視聴している分、テレビに比べれば能動的とも言えますが、世界観が限定されるというデメリットもあります。これらはメリットを拾ったとしても、そこに先に述べたような体験感情は得にくいですね。あくまで受動的な時間の過ごし方と言えると思います。 以前に「 ゲームでスポーツが上達する? 」という...

足りないことが成長の源

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マイナスアルファという考え方があります。 分かりやすい事例でよく使われるのが切り株の話。切り株を除去したい場合に有能な微生物のようなものを開発して切り株を分解させようと試みてもうまくいかないことが多いらしい。切り株の炭素が美味くないからという理由もあるし、微生物にとって必要でないのかもしれない。マイナスアルファの考え方では微生物にとって切り株の炭素を欲するような環境に置く。他の養分は十分に与えるが、生存に必要な炭素は欠乏させた環境を作る。すると美味しくなくたって炭素を摂取しなければならなくなる。その結果切り株はみるみる分解されていって除去できるというわけです。 物も情報も溢れかえっている現代において、このマイナスアルファの考え方は貴重なのではないでしょうか。スポーツの世界でも同じことが言えます。コーチ、トレーナー、トレーニングコーチ、栄養士、メンタルコーチなどの人材資源も与え、最新の道具、人工芝など整えられたグラウンドやフローリングそのものもそうだが、それを無制限に使える環境。良かれと思ってあれもこれも環境を整えると選手は頑張らなくなります。これらはプラスアルファの考え方です。 マイナスアルファの考え方では、ハングリー精神を刺激するとも言えることかもしれませんが、さまざまな制限をかけた状態をあえて好材料として捉え、独創性や努力を引き出すことができることでしょう。頑張らなければならない環境を設定するということ。時間的制約、物質的制約、人材的制約、足りないものは自分の努力や工夫でなんとかしていこうという試みです(話せば長くなるので別の機会に譲るがこの中でも時間的制約によって”もっとやりたい”と思わせることは結構大事)。また、意図的でない事例として、都市部や先進国に対して地方や途上国の環境においては、得てして特異な選手が排出されることがあります。 事実確認はしていないのですが、ブラジルでは多くの施設を平らな人工芝に整備した結果、サッカーが弱くなったという話を聞いたことがあります。アメリカのメジャーリーグとマイナーリーグの違いも似た事例かもしれません。トッププロスペクトと言えども同じ環境をくぐらせます。 特にジュニアやアマチュアの指導をされている場合にはこのマイナスアルファの考え方を持っておいてほしいと思います。親や指導者も驚くほどに子どもというのは適応していくものです。無...

失敗の練習

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 “I can accept failure. But I can’t accept not trying.”-Michael Jordan NBAの名選手、マイケルジョーダンの言葉です。日本のことわざでも“失敗は成功のもと”という言葉がありますね。 人が成長するには失敗という経験は欠かせないと思うのです。失敗を恐れてトライをしないというのは往々にしてよくあるケースだと思いますが、世の中、毎回毎回成功することはありませんから、物事のトライには失敗はつきものです。逆に言えば失敗をしたことがないというのは、トライをしたことがないとほぼ同義だと言ってもいいぐらいです。2回のトライ、2回の成功で成功率100%よりも、100回のトライ、5回成功で成功率5%の方が価値が高いと考えられはしないでしょうか。この考え方から、私は成功率よりもトライの数を意識するようにしています。 ちなみに、失敗が成長のもとになるのはトライが意図や目的を持ったトライであるときで、且つ振り返りができる場合に限ります。そうでなければ単純に“ミス”ということで終わります。失敗から学び、成長するためにはトライから次のトライまでをつなげて振り返り考える必要があります。だからトライ&エラーというのは本来はトライ&エラー&トライでひとセットです。 と、ここまでは巷の啓発本によく書かれていることですが、、、 大事なのはここからで、スポーツにおいてはこれが大量に体験できるということです。一球一球、1プレー1プレーにおいて失敗と修正を繰り返して上達を目指します。実社会の実体験としての失敗はなかなか重たいかもしれませんが、スポーツという疑似体験の環境においては実社会に大きな影響を及ぼすことなく失敗を体験できます。更に言えばスポーツではそれが数秒単位で訪れる点を考えると、どれだけ学びの頻度が高いかが分かります(テニスでは2秒に一度その機会が訪れる)。 こういった実社会で活かせるトライ&エラー&トライを学ぶ体験こそがスポーツにおける価値であると考えられます。先に述べたように実社会では失敗をなかなか受け入れが出来にくいと思いますが、失敗とは学びの機会であるという体験をできるのがスポーツですから、こんなに成長できるコンテンツはありません。日本は特に他者評価を受ける教育制度になっています...

外遊びによって育まれるもの

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子どもの場づくりに携わっている中で、時間の過ごし方についてはこれまでここの場でも発信してきたように自由で然るべきだし、それが外で元気に遊んでいようと、室内で読書や折り紙に勤しんでいようとどちらでも良いと思っていました。 しかし最近ふと気づいたことがあって、やはり外で身体活動を伴った遊びというのがプラス要素が多いだろうというように思いましたので、毎度のことながら備忘録代わりに書いてみます まず屋外という環境についてですが、屋内に比べて入る刺激の種類や量が多いです。例えば気温や風などは一定ではないし、天気も変わるし、鳥や乗り物の音など、多くの刺激が入ってきます。そういった環境に身をおくことでその刺激に晒されるだけでなく、天気や地面のデコボコなど大小含めて対応することも多いので対応力が醸成されると考えられます。 それから屋外の身体活動ということで例えばスポーツをすると人と関わります。人との関わりの中で当然コミュニケーションは生まれますし、喜怒哀楽なども発生します。一人遊びや一人でずっと読書をしている子を観察したこともありますが、他人との関わりや感情の変化はあまり見られませんでした。他者と関わる外遊びによって発生する感情の揺れや起伏に自分自身が対処するチカラというのも養われるものと思います。 さらにはスポーツでなくとも身体活動の成り立ちとして、こう動いてみようという着想に始まり、実際に自分の身体を動かす行動、動いた結果うまくいった又はいかなかったという結果があり、そしてその結果からまた再現や改善へのトライというプロセスが生まれます。スポーツによっては秒単位でこのトライ&エラー、またはPDCAが発生します(スポーツでなくても木登りや鬼ごっこなどでも)。これだけ頻繁にこのプロセスが発生するものは実は多くなく、ここにスポーツ(外遊び)の意義ありとも考えられます。 上に書いた刺激への対処や他社とのコミュニケーション、自分自身の身体活動のPDCAなどを経ると、そこには必ず意思決定が発生します。子どもの過ごし方を観察していると、ずっと一人で一つのことをしている場合に比べて、複数人で運動を伴う活動をしている場合とでは意思決定の量が圧倒的に異なることに気づきました。私としてはこの意思決定の多さが個人の人生の豊かさに大きく影響すると考えています。 もちろん、日によっては一人でいたい日...

“っぽい”は“っぽい”ままでいい

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子どもがいるところにボールとか打具を置いておくと、子どもたちは勝手に遊び始めます サッカーボールならサッカーっぽい遊びが始まり、不思議と楕円形のボールならラグビーっぽい遊びが始まります。 きっと今の子どもたちはこれまでの人生で得てきた情報から、サッカーボールは蹴るもの、ラグビーボールは持って運ぶものという認識にはなっていると思います。ちなみに私がドミニカ共和国で見た光景として、棒と投げられるサイズの物(例えば石)があれば、自然発生的に野球っぽいものを始める子どもたちの遊びがありました。先日は段ボール工作での廃材を丸くして室内でサッカーっぽいものが始まりました 実はこの“っぽい”が大事で、ちゃんとしたルールが分からないので子どもたちが勝手に作っていきます。私としてはそれを微笑ましく見ていて、スポーツの根幹がこうした子どもたち自作のスポーツっぽい感じに垣間見えます ところが、最近のジュニアスポーツの現場を見てみると、やれオフサイドが、やれノックオンがと細かなルールから教え込んでいて、子どもは楽しむことよりもルールを守ることを優先させられています。さらに悪いことにルールだけでなく、「こうやって打て」「あそこにパスしろ」と技術や戦術を教え込んでいきます。これではクリエイティブなプレーヤーが生まれないばかりか、指示待ちプレーヤーのできあがりです。最悪なケースではそのスポーツがつまらなくなって辞めてしまいます “っぽい”ものをきちんと精度高いスポーツにして、さらには大会にして、、、それで教え込んで勝って何になるのか、こういったことを考えていない指導者、広くは大人がとても多い昨今です。それで勝ってその子は嬉しいのか、嬉しいのは指導者なのではないのか。残すべきは勝利という戦績ではなく、そこに至るまでの試行錯誤ができる人間なはずなのに。(ちなみにこの人育てという点においては、私はスポーツの教育的利用には大賛成という立場ではなく、あくまでどうせ好きなスポーツをやるならそうやって試行と錯誤を繰り返したほうがいいのではないかと思っています) 大人が与えるのは知識や技術ではなく、「どうしたらいいのかな」「次はこうしてみようかな」と考える“余白”だと思います。余白を与えるから人は考え、振り返り、改善し、成長するのだと私は思います。そのために“っぽい”活動をそのままにして見守り、余白の活用を見た...