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12月, 2017の投稿を表示しています

子どもに必要なのはトレーニングではなく多様な刺激

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前回の反省を踏まえ、今回は最初にタイトルを設定しました。 前回の記事で子どもの運動能力が伸びるのに必要な要素を私なりに挙げました。 それで、子どもに対してのトレーニングはいらないと以前から書いていますが、やはり何かを狙って何かをするということは子どもにはそぐわないと思うのです。 子どもにとっては行為自体が目的であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。 それを大人がアジリティのための鬼ごっこだとか、体幹のための手押し車だとか、後から論理的にやろうとするから話が歪むだけのことです。鬼ごっこは鬼が逃げる人を全力で追いかける遊びでそれ自体が楽しいからやるわけです。 で、全力で走るという体験、動く対象物をあっちこっち追い掛け回すという体験、もっと言えばそれがでこぼこな地面でとなれば、それ自体が刺激となって子どもに伝わります。 そういう刺激が運動経験値として蓄積され、運動財を成していくわけです。その運動財が、「まだやったこともないのに、やらなくても分かる感じ」、「もっとうまくやるには、失敗しないようにするには、どうすればいいか分かる感じ」を引き出し、カンやコツとして何かの際に表面化してくるわけです。 それは黄色と青を混ぜたら緑ができるような、そんな感じだと思うのです。 そしてできた緑に赤を混ぜると茶色になる。 そういう反応がいわゆる運動能力です。 料理で言えば肉じゃがの味付けに出汁と醤油と酒と味りんをどの割合で配合するか。 計らずになんとなく入れて思っていた味になるか。 そういう感覚的な調合が運動能力です。 この辺の理解が進むと、器用さ巧みさと混同されているコオーディネーション能力というのが何なのかということが少し分かってくるのだと思います。はっきり言って読者にとっては私のこの支離滅裂な文章を読んで理解するということ自体がコオーディネーションです(笑)。 それで、色の例で言えば少なくとも赤青黄の絵具の三原色は持っていないと他の色は作れないですし、料理の例で言えば醤油がしょっぱくて、味りんは味に丸みを出すとかいった経験知が無ければ混ぜ方だって分かりません。そういう混ぜる元になるものをいっぱい持ってると多数の応用が効くということです。(追記:意外と理解されていませんが、足すだけじゃなくて引くということもかなり重要です。) やったこと

子は勝手に育つ

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少し前に『 子どもにフィジカルトレーニングは要らない 』という記事を書きました。 では子どもの運動能力はどのように伸ばすのでしょうか。 wait a minute,,, そもそも“伸ばす”のではなく、“伸びる”ようにするには という発想が必要です。 もっと言えば運動能力が“伸びない“要因を排除していくという発想でしょうか。 難しいですね。 心肺機能を養うためにインターバルトレーニングをして、、、 パワーをつけるために筋トレをして、、、 アジリティ能力の向上には切り替えしを練習して、、、 運動連鎖のためにはトリプルエクステンションを習得させて、、、 こんなものは大人がやるべき内容であって、それはそのまま子どもには当てはまらないのです。生理学的、バイオメカニクス的に子どもの運動能力向上にアプローチすることはナンセンスだと思いますし、そもそもそれで向上につながるとも思えません。更に言えば子どもの運動遊びを生理学的、バイオメカニクス的に説明することも不毛だと思います。 では、子どもには何が必要なのか? これまでに何度も言及しているように、運動財なのだと思います。 運動財と書くと難しいですが、つまりは様々な運動体験による運動の経験値です。 運動能力が伸びる要素を具体的に挙げてみると、 1.見たことがあるという経験 2.やったことがあるという経験 3.没頭 の3つでしょうか。 そのために大人、親ができることは何でしょうか。1と2は割とできそうな気がしますね。でも、スポーツ観戦に連れて行く、習い事に連れて行く、はちょっと違います。もしかしたら3に繋がるかもしれないですが。 イギリスの諺にもあるように、『馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない』のです。(“ You can take a horse to the water, but you can't make him drink. ”) 見る機会というのはどこにでも転がっています。でも“子どもの運動能力のため”にそう行動するのではなく、自然発生的でいいと思うのです。親が楽しそうにサッカー見てたり、公園に遊びに行ったら誰かが野球やってたり、そんなものです。それでやってみようかなって思ってやってみる。やってみたらできなかった。もう一回見てみる

あそびに大人はいらない

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昨今の遊びブームは大人が「子どもは遊んだ方が良い」と勝手に用意したもの。 でも遊びというのは本来誰かが用意するものではないのです。自発的に発生し、遊びはそれ自体が目的で、それ以上でもそれ以下でもない。そこに大人が入ることで遊びの空間は歪みます。 例えば、大人がサッカー遊びを用意したとしましょう。ゴールしたのかしてないのか、ファールかファールじゃないか、チーム分けで実力差が出た場合、そんなシーンになると決まって大人の方を見ます。 「今のはゴールですよね?」 「それはファールですよ!」 「そっちのチームの方が強いなぁ、、、」 そんな訴えになるわけです。 それで大人が裁き役になることとなります。 でも本来は子ども同士で解決すべき問題。納得いかないなら言い合えばいいし、喧嘩だってすればいいのです。それで言いたいことを言わないと損をすることを学ぶかもしれないし、相手を尊重することだってそこから得られることの一つになるでしょう。 ルールだって子どもたちだけで決めればいい。そうして「こうしたらもっと面白くなる」とか「どうしたら接戦になるか」とか発想力を刺激することになります。 今の子どもたちは自ら判断をする能力が乏しくなっていると言われています。逆に決められたことを実行する能力は上がっているような気がします(やらされる能力)。これは考えて実行するという機会が激減しているからに他ならないと思うのです。また、議論をすることもどんどん苦手になっているような気がします。言いたいことも言えずに飲み込む。平たく言えば巷でよく言われるコミュニケーション能力の低下ですよね。 あーだこーだ言いながらお互いの折り合い点を見つけたり、自分の主張をなんとしてでも通すというプレゼン力だったり、そういった能力は子どもたち同士のあそびの中で育まれていくと思うのです。以前「 あそびの可能性 」という記事を書きましたが、こんなところにもあそびの可能性というのは感じられます。 今のご時世ですからあそぶ環境を用意するのは大人の役目かもしれません。でも、ああしろ、こうしろというのをぐっとこらえて見守るのも大人の役目です。ただそこにある空気のような存在、そうなれたらもっと子どもが子どもらしくいられるのではないでしょうか。