投稿

あそびから得るもの

イメージ
先日、とある運動指導 (という言い方は烏滸がましいのだが) のクラスが終わった後の出来事。 最初は課題として出していたバランスボールを使ってバランス系の種目を練習していた小学生たち。ある瞬間からそれは別のあそびに変わりました。 自分の体ほどのバランスボールを両手で抱えて互いにぶつかりあう。 ただこれだけのあそびでしたが、それはそれは楽しそうにやっておりました。ぶつかってはどちらかまたは両方とも弾かれ、転び、また立ち上がりぶつかり合う。たまにボールが飛ばされて取りに行った隙に後ろからボールを当てられる。 via GIFMAGAZINE イメージ動画(前述の小学生とは異なります) 実はこの日の運動のテーマは方向転換と体幹 (←この言葉あまり使いたくないですが) 。 でもその後のバランスボールでのあそびを見ていると、そこにはいろんな要素が入っていました。   ぶつかった時にオフバランスになるのを耐える   倒れないように踏ん張る   重心を低くする   相手にフェイントをかける   そのフェイントに対応する   どの方向からボールまたは人が来るか見渡す(感じる)   投げる、捕る、蹴る 真面目に方向転換だの体幹だのプログラムを考えなくても本来はこうしたあそびで十分なのです。知らぬうちにいろんな運動体験できています。大事なのは楽しいこと&夢中になること&そして自分たちで勝手に始めること。たった15分のあそびでしたが運動量は大元の1時間よりもあったような? 特に子どもに対してはスポーツ科学的根拠に基づいた運動プログラムなんて必要ないのではないかと最近つくづく思います。適当にあそばせて、あそび足りないぐらいで帰す。続きはまた明日。その繰り返しでいいのです。我々の仕事はその環境を整え、見守ること。 (あとは保護者の理解を得るべく納得いただける説明を用意すること) また一つ子どもから学びました。 ありがとう子どもたち。

子どもの居場所と社会問題

イメージ
最近見つけた2つの記事。 夏休みが忙しい。 小学生の親たちがプランニングに奔走する理由 「専業母と兼業母の出生力」-少子化・女性活躍データ考察-女性労働力率M字カーブ解消はなぜ必要なのか 一見これまでの記事と何ら関係なさそうに見えますが、運動能力の低下が騒がれている子どもたちは被害者だと言えるかもしれません。一言で言えば 行き場所に困っている のです。上記2つの問題が顕在化した今、親御さんたちの言い分は「外遊びが大事だなんて言われなくても分かってる」というのが本音でしょう。 私の少年時代を振り返ってみると、週末こそ野球に没頭していましたが、平日の放課後はランドセルを置いたら真っ先に校庭へ戻り、来る日も来る日も暗くなるまでサッカーなりバスケなりドッジボールなりに明け暮れていました。またある日は近くのマンションの中庭でカラーボールとカラーバットで野球。これはいわゆる遊びの野球。別の日にはそのマンション全体を使って鬼ごっこ。(今思えばさぞかし迷惑だったことでしょう) 夏休みはと言えば上記に加えてプールがあるので、朝からプールへ行って、昼食べに帰って午後からまたプール。夕方から野球orサッカーorバスケorドッジボールor鬼ごっこ。 どのケースも親の下ではなく、子どもたちだけで遊んでいました。 さて、なぜこれが先の記事のような世の中に変化したのでしょう。 仮説1:公園の減少 調べた結果、公園は減っているどころかむしろ増えていて、仮説は否定されました。ただし、ボール遊びを自由にできる公園は減ったことは事実ですね。 仮説2:犯罪率の上昇 調べた結果、犯罪率は減少していることが分かり、こちらも仮説は否定されました。ただし、見方を変えれば「犯罪情報を得る機会が圧倒的に増えた→親が危険と判断する→外に出さないorPTAや地域の住民で守る→犯罪が起きにくい」ということも言えるわけで、一概には安全になったとは言い切れません。 仮説3:遊び方を知らない 時間も場所もあるが子どもたちが遊び方を知らない。もっと言えば親も知らない。 いずれにしても外遊びが出来ない環境になっていることは間違いなさそうです。それは地域の安全や遊ぶ環境整備を含めた行政の問題でもあり、親の認識の問題でもあります。テクノロジーの問題を挙げる人も...

運動の習得の適齢期

イメージ
運動の学習には適齢期というのがあって、それを逃すと到達できる上限というのは決まってしまいます。 幼い子供の頃、砂場で山を作っていた時、土台の平らな部分を作ってから上に砂を積み上げていったことを記憶していますが、その土台の部分の直径で上に積みあがる砂の高さは決まってしまいます。 私は運動もこれと同じだと思っていて、ある程度大人に近い年齢になってから運動能力を高めようとしたところで、辿りつける頂きの高さは限られてしまいます。先の砂山の例で言えば、途中から「あ、もう少し高い山を作りたいな」と思っても、一番下の土台の直径を大きくすることができないのが運動の習得です。何とか水で固めるなどして工夫をすることはできますが(別言すればトレーニングを一生懸命やることはできますが)、それでも積み上げることのできる砂の高さには限界があります。やはり土台の直径が大きい方が勝るのです。 その土台の直径の大きさを決めるのが運動体験です。多種多様な運動体験を幼いうち(できれば未就学時期)に行うことで、土台の直径はどんどん広くすることができます。ある時間が経つとそれ以降は「はい、土台作りはもう終わりなのであとは今作った土台の上に砂を積み上げるだけにしてください」となるわけです。おそらくはそれが小学校中学年期ぐらいでしょうか。科学的根拠はなく、あくまで私の経験則からですが。 そこから先はいかに上手く水を使って固めながら砂を積み上げることができるかという勝負ですね。それがいわゆるトレーニングです。トレーニングの質が同じならば土台が大きい方の勝ちですよね。 話は変わりますが、先日英語の指導をする機会がありました。聞けば英語を使って仕事をすることを目指すと言います。しかし当人は受験をした経験がなく、大人になってから文法や単語をスタートさせるという状況です。これはとてももったいないことです。受験英語がある程度貯金として残っていればそれを基に高いレベルの英語を習得する、または応用実践に入ることができます。 また数学においても因数分解をやりますって時に九九や割り算が出来なかったら、皆が因数分解をやっている時に九九や割り算からやらなければいけないことになってしまいますね。 運動においても同じことが言えます。ある動作の習得を狙ったときに、その基盤となる運動体験がな...

あそびの価値と意義 ~グーツムーツの主張~

イメージ
「力や器用さの不足は、市民社会に多くの問題を引き起こし、病気や身体的忍耐力の不足はまさに我々市民の教養人を悩ませる。文化界の教養人階層の非常に重苦しい病は、無気力で、安楽癖であり、身体的努力に対する嫌悪である」 これはドイツの教育学者(体育学者)であるグーツムーツによって著された『遊戯書』(Spielbuch. 1796)に関連したところで200年以上前に述べられた一文です。先に述べますが、本記事の「」で記された部分は以下の森田氏による文献の引用です。 グ-ツム-ツの遊戯論-1-「遊戯書」における遊戯思想と教育的基礎づけ GutsMuths' Theory about Plays and Games (No.1) -His Through and Educational Fundation in "Gamebook" 森田, 信博   ,    MO RITA, Nobuhiro 秋田大学教育部研究紀要 教育科学 (32)  , pp.154 - 167 , 1982-02-01 , 秋田大学教育学部 ISSN: 03870111 NII書誌ID(NCID):AN00010271 リンク: https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 繰り返しますがこれは200年以上前に謳われたもので、日本で言えば江戸の寛政にあたります。驚くべきはその風刺が2世紀を経た今でもなお耳の痛い指摘である点です。 新たな時代に求められるものとして 「誠実さや信頼、...

フォームを変える時の違和感

イメージ
ある動作の様式を変える時、分かりやすく言えばフォームを変える時、そこには多分な“違和感”が伴います。 動作様式を変えると一言で言ってもそれはすなわち今まで慣れ親しんできた動作を一度壊して、また構築する作業です。 元の動作に慣れ親しんでいればいるほど、またその動作を行ってきた期間が長ければ長いほど、変化による違和感は大きく、また変えるためのエネルギーも多くいることでしょう。 問題はその違和感に耐えられるか   です。 正確にはパフォーマンスの低下に耐えられるか  とも言えます。 パフォーマンスを上げるために変化を求めたのに、その動作に違和感を感じ、諦めてしまうケースがあります。自分の動作を一度壊しているのだから違和感を感じることはもとより、パフォーマンスが一時的に低下するのは当たり前なのにもかかわらず。 利き手でない方で箸を使うことを考えれば想像に難しくないと思いますが、利き手と同様に扱うまでにはそれはそれは多大な労力が必要でしょう。実際に加える変化や感じる違和感はそれほどまでではないにせよ、こういった労力は少なからず必要です。それを耐えて、信じ続けて、新しい動作が慣れ親しむまで繰り返し、新しい動作様式を構築する必要があります。 その結果、元の動作が行えない、またはものすごく違和感を感じる動作になっていることでしょう。そうなったらシメたもので、新しい動作が自分のものになった証拠です。それは元の動作様式が忘却され、新しい動作が無意識化まで落とし込まれたことになります。 ただし、それには指導する側にも根拠と責任が必要で、それがなければ納得して取り組めないし、新しい動作を手に入れるまで継続できないでしょう。裏付けとなる証拠、説明、ゴール、覚悟を持って取り組むことが指導者に求められます。 これには落とし穴があって、理論的には正しいことでも、選手本人が動作を一度壊してまた構築し直すということができずに、結果的にパフォーマンスが下がるというリスクも伴います。そのリスクには今度は指導者側が耐えられずに新しい動作を手に入れる前に諦めてしまうケースもあります。最悪のケースは動作は壊せたが構築できず、そして元の動作にも戻れなかった場合ですね。 そういう動作を壊すとか構築するとかいった作業を左右するのはコツとかカンであり、その背景にはやはりこれまで...

(広義での)トレーナーにはその競技経験が求められるか?

ある競技の選手を指導する際、求められるものの一つに競技経験があります。 それに関して、私の個人的な意見を述べるとすれば、「あるに越したことはないが、なくても良い」という至って平凡なものになってしまいますが、大事なのは指導する側の運動財(※)です。 (※運動体験により蓄積された運動感覚、コツ、カンのようなもの。身体知という言葉も類義ではあると思いますが、ここでは私がイメージしやすかった運動財という言葉を使用します。) 動きを見ていて、「あ、今こういう感じ方をしたんじゃないかな」「こういう力の入れ具合でやったらうまくいくんじゃないかな」というような推察はこれまでにそういう感覚を体験した人間にしかできません。指導者がそういった感覚を持ち合わせていなければ選手と感覚の共有を図れることもないし、共通言語を使ってのやりとりもできないのではないでしょうか。コーラやビールを飲んでいるCMを見て美味そうだなと思うのも自己の体験があるからこその感覚です。 もちろんその指導者が指導対象者と同じ競技をあるレベルまで突き詰めていれば指導にも深みが出ると思いますし、選手からの共感や信頼も得やすいのは事実だと思います。でもそうでなくても豊富な運動財があれば、「今ボールが軽く感じたでしょ?」「お尻を使って上手く地面を捉えられたでしょ?」といったように、指導対象者が実践している運動を見てあたかも自身がその身体に入り込んで運動しているかのように感じることができるはずです。 フィジカルトレーニングの指導者で言えばウエイトトレーニングを見て「今の動きだとお尻じゃなくて腿がキツかったんじゃない?」といった摺り合わせになるでしょうし、技術コーチで言えば「あの場面、力んで腕が遅れただろ」といった技術感覚の共有になると思います。 表題に「広義での」と書いたのはフィジカルトレーナーだけでなく、技術コーチも含めてすべての指導者にとって共通に言えることだからです。メンタルトレーナーだって心の感覚の共有は必要ですし、それは栄養トレーナーにとっても同じです。 もちろん指導者自身が到達していない、または体験していないステージの対象者を指導することも多いです(私も含めて実際そのケースの方が多い)。その際にも運動財があれば摺り合わせをすることができるはずです。それでも「やったこ...

家庭菜園に選手育成を重ねる

イメージ
先日、夏野菜を植えました。 今回は苗から。 収穫が楽しみです。 さて、冬はほうれんそうと小松菜をたくさん作ったのですが、種から育てるときに毎回思うことがあります。 それは間引きの時。 育ちの良い芽もあれば悪い芽もある。 職業病とも言えるでしょうか、それが子どもたちへの運動指導に重なってしまって。 野菜を育てる鉄則としては育ちが悪い芽は摘んでいく。 そうすると育ちが良い芽がより元気になっていく。 早熟が残って晩熟は残らない。 それがなんだか寂しくて。 少し離れたところにポツンと植えてかえてやる。 そうすれば育ちが悪い芽もなんとか成長するチャンスがあるんじゃないかって。 運動指導も同じ。 同世代の中では今は劣っていても伸ばせるポテンシャルはあるはず。篩(ふるい)にかけるのではなく、どうしたらその子を伸ばせるかを考える。 その子が伸びていない理由はなにか。 練習量?運動経験?家族構成?育て方?それとも愛?子どもであればいろいろな要素が絡んできます。なんとかそれを見つけて伸ばしてあげたいなと。いや、伸ばしてあげたいというのはおこがましいですね。私にできるのはその子が伸びる環境を整えてあげること。 伸びる伸びないはその子次第ではなく、環境次第だから。 さて、野菜の話に戻りますと、実際に前述のようにポツンと植え替えた芽が元気よく育ったケースがありました。 そして収穫期には早熟のやつをどんどん収穫する。まだ育っていないやつに育ってもらうために。貧乏性という性格も相まって間引きも極力少なくして、育ちが悪いやつも育ちがいい奴が抜けた後に収穫ができるようにしています。(玄人はそんな野菜の育て方はしないのでしょうけども。) 子どもの育成も似たようなことがありますよね。 植物は正直です。 育て方を間違えなければ応えてくれます。 ところが人間はそうはいきません。 早熟とか晩熟とか、見極めも難しければ、育成も一筋縄ではいきません。 きっとそれが醍醐味なんですよね。 子どもの未来のために勉強します。 こちらは去年の夏野菜 なかなかの出来でした