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子どもの「やりたい」は子どものもの

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スポーツはいつから“習い事”になってしまったのだろうか。 昨今の子どものスポーツを取り巻く環境を見聞きしていると、そんな感想を第一に持ちます。あるスポーツを始めた子どもに対して、定型の技術や戦術を教え込んでいく。本当はそこに正解はないはずなのに。決められたことを教え込んでいくということに多くの意味は感じにくいというのが私の所感です。 今ここで云わんとしていることはスポーツの語源はdeportareという気晴らしを意味する言葉で、、、などといったことではなく、その一挙手一投足に対する指導が誰のためであり、何のためなのかが今一つ分からなくなっているという現状を嘆いております。おそらく指導している指導者自身も分かっていないのではないでしょうか。 考えられる理由としては「上達することで楽しさを感じてもらいたい」「勝つ喜びを知ってもらいたい」といったところでしょうか。そういった目的があることも理解はしており、それはそれで良いと思うのですが、幼少期から学童期におけるスポーツは競技スポーツとは異なり、また体育とも異なります。「やりたいからやる」とか「自己表現」がベースにあるのではないかと思うのです。その中で人間が本来持つ向上したいという欲が生まれ、あーだこーだ試行錯誤が始まるのだと思います。その結果うまくいけば自分事として嬉しいという感情につながります。この向上欲への刺激と試行錯誤と達成感こそがスポーツをやる上で大きな意味合いになってくるのかなと思います。このあたりは前に「 スポーツもR&D 」や「 大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない 」で触れました。 しかし、トーナメントやポイント、ランキングなどが存在するとアフォーダンス的に一気に「習い事」に靡いてしまいます。しかも靡かれる度合いが高いのはいつだって子どもより大人です。「勝ちたい」が「勝たせたい」になったり、「上手くなりたい」が「上手くさせたい」になったりしていきます。 そうやって習い事として育った先には良くないことが2つあると思っています。 一つ目はそのスポーツがつまらなくなること。やらなければいけない動作やプレーが義務感を生み、表現したい自己はかき消され、やりたかったからやっていたスポーツがいつからかやらされるスポーツに変わってしまいます。 二つ目は習った技術や戦術が枠となり、その枠の中でしかプレーができな

「これでいい」という生き方

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 「うん。これでいい。」 息子が幼少期によく言っていた言葉。お絵描きやら工作やら、自分なりの作品ができた後に誰に伝えるでもなく呟いていました。 前回の記事は「我思う 故に我あり」というデカルトの言葉で終わりましたが、今回は身近な息子の言葉。。 最近では自己肯定感とか自己効力感とか自己有能感とか、色々な言葉が出てきていますがどれもしっくりきません。効力や有能を必ずしも感じなければいけないとは思わないし、肯定というのもなにか違う。自尊心という言葉もありますが、これもなんとなく違う。 自分の行動、そしてその結果に対して「これでいい」と思えることこそが大事なのかなと思います。 私もそうですが日本人は自分の意見を述べることに億劫なことが多いですね。他人と意見が違ったらどうしよう、否定されたらどうしよう、こう考えてしまうと自分の意見を言うことができなくなります。これも前回の記事に書いた「評価」がもたらす悪しき点かと思います。 私が思うのは「意見」は立場に関わらず平等であるということ。議論は意見に対して行われるべきであって、誰が言ったかは本来は議論の論点ではないことが多いです。これは子どもでも大人でも一緒です。お互いが意見や思ったことを述べた上で、議論や会話を広げていけばいいということですね。 今回のこの記事は前回の記事の延長として書いていますが、まずは自分の考えを発想したり、自分の感情を認識したりできることが大切かと思います。その上でそれを他者と共有する。私もそうでしたがこれは練習(経験)が必要です。それができずに苦しんだ時期もあり、今でもそんなときがありますが、私は冒頭の息子の言葉に救われました。 「うん。これでいい。」 そういう生き方をこれからもしていきたいなと思います。

大人は子どもの内省の機会を奪ってはいけない

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自分は何者なのか?自分は何がしたいのか?自分はどうありたいのか? 自己基盤というらしいのですが、私自身を含めこれがない人が多いと感じています。なぜだろうとここ最近思いを巡らせていて、一つの考えに思い至りました。 「人々は評価をされすぎている」 勉学もスポーツもとにかく評価が多い。学校に行けばテストや成績表で先生から評価され、スポーツをやれば勝った負けたで指導者から評価を受けます。ましてや課題や取り組むべき問題すら与えられるばかりで自発的なものは希少という現状です。評価をされるということはある正解があって、それに合致しているか、少なくとも近づいているかが問われることになります。こういったことに義務教育で9年、後期高等教育以降で更に3年~10年強にわたり晒されることになります。そして社会に出てからも多くの組織においてはそういう仕組みになっています。これだけ他者評価というものを軸に年数を過ごすと自己というものが減殺されていき、冒頭の問いに答えられなくなっていきます。 卵が先か鶏が先かは分かりませんが、自己と同じく失うものとして「内省」が挙げられます。他者の評価が内省よりも先にくると人は内省をしなくなります。内省をしない人は成長は難しいです。スポーツでも同じ問題があります。勝てば良し、負ければ悪という勝利至上主義自体は指導方針の問題なのでそこに正解も不正解もないとは思いますが、いちいちプレーごと、試合ごとに指導者が良い悪いを述べていたのでは子どもは内省するチャンスを失ってしまいます。 本来スポーツ、もっと言えば運動というものは「自分がこう動きたい」と思ったことに対して自発的にそれができたかどうかを振り返りながら洗練させていくものだと思いますが、振り返る機会をもらえずにプログラミングされていってしまう場面が多々あります。体験→内省→考察→試行というプロセスが分断されてしまっています。スポーツは良い教育コンテンツだと言うつもりはないですが、この行動サイクル-体験学習モデルがスポーツにおいてはとても良いテンポで行われます。ここまで早いサイクルで回るものはあまりないかと思いますが、スポーツでなくても内省や振り返りの機会とトライ&トライの機会をたくさん得られればきっと自己成長につながるものと考えます。 ある遊びのシーンでとある男の子からこんな発言がありました 「ちくしょう!明日は絶対