投稿

7月, 2017の投稿を表示しています

あそびから得るもの

イメージ
先日、とある運動指導 (という言い方は烏滸がましいのだが) のクラスが終わった後の出来事。 最初は課題として出していたバランスボールを使ってバランス系の種目を練習していた小学生たち。ある瞬間からそれは別のあそびに変わりました。 自分の体ほどのバランスボールを両手で抱えて互いにぶつかりあう。 ただこれだけのあそびでしたが、それはそれは楽しそうにやっておりました。ぶつかってはどちらかまたは両方とも弾かれ、転び、また立ち上がりぶつかり合う。たまにボールが飛ばされて取りに行った隙に後ろからボールを当てられる。 via GIFMAGAZINE イメージ動画(前述の小学生とは異なります) 実はこの日の運動のテーマは方向転換と体幹 (←この言葉あまり使いたくないですが) 。 でもその後のバランスボールでのあそびを見ていると、そこにはいろんな要素が入っていました。   ぶつかった時にオフバランスになるのを耐える   倒れないように踏ん張る   重心を低くする   相手にフェイントをかける   そのフェイントに対応する   どの方向からボールまたは人が来るか見渡す(感じる)   投げる、捕る、蹴る 真面目に方向転換だの体幹だのプログラムを考えなくても本来はこうしたあそびで十分なのです。知らぬうちにいろんな運動体験できています。大事なのは楽しいこと&夢中になること&そして自分たちで勝手に始めること。たった15分のあそびでしたが運動量は大元の1時間よりもあったような? 特に子どもに対してはスポーツ科学的根拠に基づいた運動プログラムなんて必要ないのではないかと最近つくづく思います。適当にあそばせて、あそび足りないぐらいで帰す。続きはまた明日。その繰り返しでいいのです。我々の仕事はその環境を整え、見守ること。 (あとは保護者の理解を得るべく納得いただける説明を用意すること) また一つ子どもから学びました。 ありがとう子どもたち。

子どもの居場所と社会問題

イメージ
最近見つけた2つの記事。 夏休みが忙しい。 小学生の親たちがプランニングに奔走する理由 「専業母と兼業母の出生力」-少子化・女性活躍データ考察-女性労働力率M字カーブ解消はなぜ必要なのか 一見これまでの記事と何ら関係なさそうに見えますが、運動能力の低下が騒がれている子どもたちは被害者だと言えるかもしれません。一言で言えば 行き場所に困っている のです。上記2つの問題が顕在化した今、親御さんたちの言い分は「外遊びが大事だなんて言われなくても分かってる」というのが本音でしょう。 私の少年時代を振り返ってみると、週末こそ野球に没頭していましたが、平日の放課後はランドセルを置いたら真っ先に校庭へ戻り、来る日も来る日も暗くなるまでサッカーなりバスケなりドッジボールなりに明け暮れていました。またある日は近くのマンションの中庭でカラーボールとカラーバットで野球。これはいわゆる遊びの野球。別の日にはそのマンション全体を使って鬼ごっこ。(今思えばさぞかし迷惑だったことでしょう) 夏休みはと言えば上記に加えてプールがあるので、朝からプールへ行って、昼食べに帰って午後からまたプール。夕方から野球orサッカーorバスケorドッジボールor鬼ごっこ。 どのケースも親の下ではなく、子どもたちだけで遊んでいました。 さて、なぜこれが先の記事のような世の中に変化したのでしょう。 仮説1:公園の減少 調べた結果、公園は減っているどころかむしろ増えていて、仮説は否定されました。ただし、ボール遊びを自由にできる公園は減ったことは事実ですね。 仮説2:犯罪率の上昇 調べた結果、犯罪率は減少していることが分かり、こちらも仮説は否定されました。ただし、見方を変えれば「犯罪情報を得る機会が圧倒的に増えた→親が危険と判断する→外に出さないorPTAや地域の住民で守る→犯罪が起きにくい」ということも言えるわけで、一概には安全になったとは言い切れません。 仮説3:遊び方を知らない 時間も場所もあるが子どもたちが遊び方を知らない。もっと言えば親も知らない。 いずれにしても外遊びが出来ない環境になっていることは間違いなさそうです。それは地域の安全や遊ぶ環境整備を含めた行政の問題でもあり、親の認識の問題でもあります。テクノロジーの問題を挙げる人も

運動の習得の適齢期

イメージ
運動の学習には適齢期というのがあって、それを逃すと到達できる上限というのは決まってしまいます。 幼い子供の頃、砂場で山を作っていた時、土台の平らな部分を作ってから上に砂を積み上げていったことを記憶していますが、その土台の部分の直径で上に積みあがる砂の高さは決まってしまいます。 私は運動もこれと同じだと思っていて、ある程度大人に近い年齢になってから運動能力を高めようとしたところで、辿りつける頂きの高さは限られてしまいます。先の砂山の例で言えば、途中から「あ、もう少し高い山を作りたいな」と思っても、一番下の土台の直径を大きくすることができないのが運動の習得です。何とか水で固めるなどして工夫をすることはできますが(別言すればトレーニングを一生懸命やることはできますが)、それでも積み上げることのできる砂の高さには限界があります。やはり土台の直径が大きい方が勝るのです。 その土台の直径の大きさを決めるのが運動体験です。多種多様な運動体験を幼いうち(できれば未就学時期)に行うことで、土台の直径はどんどん広くすることができます。ある時間が経つとそれ以降は「はい、土台作りはもう終わりなのであとは今作った土台の上に砂を積み上げるだけにしてください」となるわけです。おそらくはそれが小学校中学年期ぐらいでしょうか。科学的根拠はなく、あくまで私の経験則からですが。 そこから先はいかに上手く水を使って固めながら砂を積み上げることができるかという勝負ですね。それがいわゆるトレーニングです。トレーニングの質が同じならば土台が大きい方の勝ちですよね。 話は変わりますが、先日英語の指導をする機会がありました。聞けば英語を使って仕事をすることを目指すと言います。しかし当人は受験をした経験がなく、大人になってから文法や単語をスタートさせるという状況です。これはとてももったいないことです。受験英語がある程度貯金として残っていればそれを基に高いレベルの英語を習得する、または応用実践に入ることができます。 また数学においても因数分解をやりますって時に九九や割り算が出来なかったら、皆が因数分解をやっている時に九九や割り算からやらなければいけないことになってしまいますね。 運動においても同じことが言えます。ある動作の習得を狙ったときに、その基盤となる運動体験がな

あそびの価値と意義 ~グーツムーツの主張~

イメージ
「力や器用さの不足は、市民社会に多くの問題を引き起こし、病気や身体的忍耐力の不足はまさに我々市民の教養人を悩ませる。文化界の教養人階層の非常に重苦しい病は、無気力で、安楽癖であり、身体的努力に対する嫌悪である」 これはドイツの教育学者(体育学者)であるグーツムーツによって著された『遊戯書』(Spielbuch. 1796)に関連したところで200年以上前に述べられた一文です。先に述べますが、本記事の「」で記された部分は以下の森田氏による文献の引用です。 グ-ツム-ツの遊戯論-1-「遊戯書」における遊戯思想と教育的基礎づけ GutsMuths' Theory about Plays and Games (No.1) -His Through and Educational Fundation in "Gamebook" 森田, 信博   ,    MO RITA, Nobuhiro 秋田大学教育部研究紀要 教育科学 (32)  , pp.154 - 167 , 1982-02-01 , 秋田大学教育学部 ISSN: 03870111 NII書誌ID(NCID):AN00010271 リンク: https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 https://air.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1261&item_no=1&page_id=13&block_id=21 繰り返しますがこれは200年以上前に謳われたもので、日本で言えば江戸の寛政にあたります。驚くべきはその風刺が2世紀を経た今でもなお耳の痛い指摘である点です。 新たな時代に求められるものとして 「誠実さや信頼、強靭な性格、ゆるぎない愛情、楽しさや勇気や男性らしい意識」 である